佛  跡  経   観 心 寺 に て  
 東光寺山小四国八十八ケ所石仏の一体 【千手観音】      

佛 跡 経

 

 次のようにわたくしは聞いた。あるとき、滅多に青空を仰ぎみることもできない、日本という異域の国から、世尊の教えを奉じる比丘八人と、女性三人を交じえる在家の人八人の一行十六人が、世尊の覚りをひらかれた場所、ブダガヤを始め、ナーランダ寺、仏陀修行の地であるラジギール、霊鷲山、初転法輪の地サルナートの鹿野苑などに参拝するために、インドの地へとやって来た。

 彼等は自らの眼に映じた風景を、しっかりと心にとどめ、帰国して待ちうける人らにまざまざと伝えるほどの、修行が完成した比丘たちではなかったので、手には一眼レフカメラを持ち、また戒をきびしく保つほど、世尊の教えを生きたものとして信じていない、末世の仏教徒たちであったため、飛行機のなかでは、スチュワーデスのすすめに、在家の人間と同様に応じて、肉を食らいワインやビールを楽しみながらやって来たのである。

 なかには妻を連れた仏弟子もいて、時にはひとつの窓から、顔を寄せるようにして、下界を、微雲間より覗いたりしていた。

 彼等は日々怠らず修行をなし、すぐれた法を保持し、魔を断ち、念と理知と理解と三昧とダーラニーと弁才とを完成しようなどという、世尊のご在世の時代からそう遠くない頃に、玄奘三蔵などのように必死の想いでわがインドにやって来た僧たちとは、どこかしら趣きが異っていて、しいて表現すれば、いささか落ちるといえなくもないが、まぎれもなく世尊の因縁のものたちであり、その証拠に、ナーランダ寺院跡では、シャーリプトラの墓前に香を手向け、般若心経を朗々と読経した。

 その時、シャーリプトラは仏国土よりその声を耳にして、仏道、日々おとろえるかに見えるこの時代のことは、半ばあきらめ「空しさきわまれる世」だと日頃つぶやいておられたが、その時、ナーランダ寺院跡の光景に眼を細めうなづかれた。

 すると、ナーランダ寺院の上の日輪は輝きを増し、読経する比丘をはじめ他の八人の在家の者も、汗を流しながらそれをぬぐおうともせず、ナーランダ寺院跡をとりまく野に、般若心経を読む声がしみとおりひろがってゆく様を、感動してながめており、合掌するものもあった。

 その読経の声を聞き、輝く地平のほうをながめながら、ひとしお心をうたれた一人の青年がいた。

 一行はナーランダ寺から霊鷲山へと向い山の上まで、全身汗みずくになって辿りつき、そこでも、比丘たちは釈迦の息吹きのようなものを感じながら、舎利礼文を読経した。

 世尊は、その時昼寝していられたが、静かに眼を開けると、左の耳をじっと澄まされた。

 「あの頭をとっているのは、松下隆洪だわい」とつぶやかれた。

 彼の声は大きく朗々と力強かったからである。そうして霊鷲山での参拝が終りに近づいたころ、世尊は「あの在家の一人が、まもなく発心するであろう」と心に思われて、眼を閉じ再びかるい鼾をかかれた。

 二十年ほど前から、世尊は下界を覗くために、雲界を開けられると、日本列島のあたりから、いやな匂いが流れこんで来て、かるく鼾をかかれるようになったのである。

 そのことを知っていられるのはシャーリプトラだけであったが、仏国土にパニックが起こってはと、内緒にしていられた。

 翌日はブタガヤで、一行は早朝に大塔へ参拝した。

 大塔での勤行は特に入念で、さすがにあたりを払うきびしさと、聞く者にありがたい念を起こさずにはいなかった。このとき、かの青年は、キリスト教という外道の信者であったが、仏門に帰依する決心がついた。

 このようにして、九月五日から九月十二日という短日程の仏跡巡拝の旅は、世尊の教えが、まだヴィヴィッドであることを証明しながら、となりの国、ネパールの高原から、神々の座を垣間みるという幸運もものにして無事終えることができたのである。

 この道中、斎藤友厳は、とりわけ大きなブロニカというカメラを持参し、ここぞと思ふ仏跡では、念入りに列など整えて一行の撮影に励んだが、帰国して取り出してみると、一枚として撮れておらず、大成功と考えた仏跡巡拝の旅のなかでの唯一の不可解であるとながく後の世まで、人々に楽しく話題にされた。

 世尊も、メカニズムには苦手で、手助けが叶わなかったと、シャーリプトラにつぶやかれたということである。             

                    1976年  沙 門 宥 厳 謹訳

  トップにもどる


 

観 心 寺 に て

 

 今年、また観心寺の御開帳に参拝し、一年ぶりで如意輪観音の美しい形姿に接した。

 今年はわたしたちが肌で感じる気候よりも、桜前線の方が一足早かったようで、四月十七、十八日の観心寺は、若葉一色であった。

 わたしは十八日に詣でたわけだが、平日で人も多くはなく、ありがたかった。

 人が多くないのがありがたいとは何事と言うむきもあるかも知れないが、あのようにありがたい仏は、できるだけ人の少ないところで拝すべきである。

 仏様というのは、団体でほこりを巻きあげながら拝むものではない。わたしなぞは人間がひねくれているからか、四天王寺などのように縁日にどっと人が出て来て、押しくらまんじゅうされながら、肩ごしにやっと前方の仏様のましますあたりに、流し目かウインクを送れるようなのは拝んだ気がしないので、拝むからには、あたりの人気を払って、仏と差しで向いあいたいのである。

 信仰というのは本来、差しで行われるものではないだろうか。

 説法というのは、大勢の衆生がいて、悟道を得た人が、一壇上から演説するという形になっているが、そういう説法があまりありがたくなく、効果もないということは確かで、もしそういう説法を好んで聞きに行くという年寄りがいたとしても、それはなにわ節を聞きに行くということと、大してちがわないように思うのである。

 入信するというのは、そういう場所でなく、説法でもなく、一人の人間が、なにか個にめざめるというような内面から始まる。

 個にめざめるというのは、容易なことではないので、信仰していると自称する人間が全て個にめざめているかといえばそうではなく、衆生に説法する側の坊主だって、個にめざめているかどうか怪しい限りで、わたしの観察するところで合格点を取れるのは、まあ阿修羅会の同人くらいのものであろう。

 日本では宗教思想というものも多数あり、思想というものも幾多あるわけだが、ほとんど理論あって実践なしで、言うこととすることとは計算が合わないのである。

 仏教の教えというものも、まことに結構毛だらけだが、そういう生きざまを示して見せた僧侶というのは、日本仏教史上ざらにはあるまい。

 現代においておやである。有名寺院に人は集ってくるが、その寺院の僧の風をしたってやってくるというのではない。

 道を聞かんが為でもない。

 衆生というものは、寺の僧を、スーパーの店員並みしか考えておらず、寺へ来て、必要なものを買って帰るだけである。

 祈祷料なにがし、拝観料なにがしで、宿坊などへ泊ると、規定の料金以外に、うかうかしていると、そういうものを取られかねず、大した商人だと、舌打ちして帰る人も多いのだ。

 そういうことは当然で、僧侶というのも、俗人と同様、同じ時代に、同じ文化を享受し、同じ欲望をもち、同程度の学問をやって、専門といえば、葬式用の儀式を一通り身につけているだけのことで、決して人間の苦しみを人より倍にも三倍にも感じるわけではなし、年頃になれば女房ももらうし、子供が育ってくればぜいたくもさせてやりたいというおろかな親心、どうして悟りなど開かれましょうぞ、というのが現状ではあるまいか。

 そういうことを、衆生というのは直感的に見抜いていて、坊主など本当は一かけらもあてにはしていないのである。

 俺はあてにされているぞ、というお方がいられたら、阿修羅会から賞状を差しあげるつもりであるから申し込まれたい。

 ここに一人の個にめざめた信心家がいるとする。この人の眼の正視にながく耐える僧がいるとすれば、その人は幸いなるかなである。

 過日、真言密教の念力とかを放映するとて、高野山へテレビカメラが持ちこまれ、躰が空に浮上するとか、念力で火をつけるとか、その他、大まじめな顔でやっている僧侶の行状をみて、わたしはあっけにとられた。

 企画したテレビ局の方はやま師だが、のった僧侶は阿呆とでも言うの他ない。

 その数日あとだったか、NHKが永平寺の雲水の修行ぶりを放映した。

 その格調の高きこと、われらが宗派の念力三昧と比ぶれば、雲泥の差というものである。

 悲しいかぎりである。念力などというのはよしんば現じ得るとも、あのような形でショウにするものではあるまい。

 この我々が享受している文明の一切も、また念力の所産なのだ。

 空を飛ぶことも、車で走ることも、一本のマッチが燃えることも。

 宗教は低俗な好奇心の対象ではない。テレビに映ずる密教念力のパワーなぞ、俗人の念力で開発した文明にくらぶれば児戯に等しいのだ。笑わせてはいけない。

 寺院はそこに参拝することで、人間の存在そのものの新鮮さに気付く場所でなくて他に何の用があろう。昨年のご開帳には、詩人の港野喜代子さんを誘ったら、予定があって残念だと言ってことわられたが、彼女は、わたしが観心寺の境内で酒を飲んで友人たちと人生に酔っぱらっている時、自宅の風呂のなかで果てていて、十九日までは発見もされず、五日間ものあいだひとりぼっちだったのだ。

 今年のご開帳に参拝して、そのことを思いだし、ありがたい観音さまも、ぼっとかすんで仕方がないのだった。        

                           1977年5月    【宥厳】

  トップにもどる   

  ★ホームページへ