1999年10月3日(日) 奈良県文化会館 第21回日本アーユルヴェーダ学会総会第2日
特 別 講 演

現代医学からの脱皮  

山 形 謙 二 

神戸アドベンチスト病院副院長


 こちらで話すように頼まれたのですが、私がここで何が話せるかと色々考えたわけです。山内会長とは何回かホスピスという場で、今紹介ありました中島陸郎(註)さんを介しまして、お会いしました。

 こういう会があるから、話してくれないかという事でした。果たして私に何が話すことがあるか、と思ったわけです。    

 

 アーユルヴェーダに関しては、私はそんなに知識があるわけではありませんけども、私が外から見た感じはですね、アーユルヴェーダ一つは現代医学に対する、一つのアンチテーゼと言いますかね、そういうものを提出されているのではないかと思います。一つは治療医学よりも予防医学を重視していると言うこと、もう一つは、人間を分析的に臓器的に見るよりむしろ、全体的に見るというアプローチをしていらっしゃるんではないかと思います。

 一応私の方から何か話すことが有るとすれば、私自身、現代医学に対しての批判として、一つは人間を個別に見るのではなくて、全体的でみること、これを私自身の医療の課題として考えている訳です。

 もう一つは、医療というのは医者中心ではなくて、患者さんが主体となった医療、そういうものが有るべきだという風に考えています。

 それで一応今回のテーマが「現代医療から未来医療」と言うところで、今の医療に対して一つ、私自身意見を言わせていただければ、「医者中心の世界から患者中心の世界へ」。そういうような医療を私自身は考えている所です。

 そういう観点から私自身やっているホスピス医療というものを紹介しながら、皆さんと上手く接点が合えばいいとは思うんです。私自身一方的な話になりますけども、後でデスッカションする中でお互いにそこの所を話して行けたら素晴らしいと思いますね。  

 現代は癌というのは日本の死亡原因の第一位ですね、3人に1人は癌でなくなっている。非常に癌死というものが問題になってきている。3人に1人は亡くなるという、その癌の終末期をどういう風に過ごすのか、本当に人間的に尊厳を持って死ぬことが出来るのかどうか、そこが今大きな問題として浮かび上がってきています。

 私達も、ホスピスがまだまだ日本では普及していない医療ですけども、終末期医療という問題に対して我々になにが、どう言うことが出来るか、ということを今、社会への問題提起として投げかけているんです。

 

 ここに現代終末期医療の問題点として、2つ挙げておきました。

 まず過剰な検査と処置。スパゲッテイー症候群といわれるように、鼻から管が入れられ、口からもチユーブが入れられですね、それからおしっこの管が、点滴がでている、スパゲテイ症候群ですね、そして回りはモニターに囲まれている、あたかも戦場における壮絶な死なわけですね。

 患者さんや家族がよく相談に来られます。最後の最後まで抗ガン剤を使ってですね、むしろ病気の苦しみよりも、抗ガン剤の苦しみで亡くなって行くと言うような、患者さんも多くあるわけですね。2番目は終末医療に対する医療者の無関心、そんな中で本当に患者さんの為の医療とはどういうものなのか、それを考える必要があるんですね。

 現代医療というのは、治る見込みのある患者さんに対しては一生懸命やります。しかしいったん治る見込みのなくなった患者さんには興味が無くなってしまう。

 よく私の所に相談にこられる患者さんはおしゃるんですね、「病院では何もすることがありません、どうか他の病院に行ってください」と言われる。いったいどうしたらいいんでしょうか?

 本人は怒りや苦しみですね、どうしたらいいんでしょうか?そういう相談がきます。

 私自身はですね、患者さんが命を持っている限り、生きている限りは、やることは幾らでも有ると思うんです。生きている人間を前にしてやることがないというのは、決してあってはならないですね、治すための医療が出来ないとするならば、患者さんが出来るだけ苦しまないですね、なるべく安らかな命を全うする事が出来るような医療を考えなきゃいけない。そういう風に思うわけですね、ここにニューヨークで亡くなった女性ジャーナリストの千葉敦子さんの引用を書いてきました。

 彼女はこういう訳ですね、「何がなんでも、今の日本の状況が続く限り日本では死にたくないと考えます。一人の医師やナースの問題ではなく日本の病院全体が、患者を対等な人間として扱っていなからです。そんなに死が恐ろしくないと感じている理由は、医師達が私に嘘をついたり、隠し事をしないと言う確信に基づいています。私に何が起ころうともきちんとしたした説明がなされると言う確信、これ程心静まるものがあるでしょうか、逆に医師との信頼関係なしに死を迎えるとしたら、これ程苦しいものが無いのではないかと思います。一つの文化の高さを計る尺度は色々有ると思いますが、国民が豊かな気持ちを抱いて死ねる社会が建設できれば、その文化は非常に深い水準にあるといえるのではないでしょうか」。

 現代の日本の医療に対する一つの彼女が批判しているわけです。

 彼女は元々東京で乳ガンの治療を受けていましたが、その治療も満足することもできず、彼女はアメリカのニューヨークに行き、ニューヨークで癌と闘いながら亡くなったのです。彼女は、日本における医師と患者の関係を批判しています。

 これが本当に良い信頼、本当に対等な関係が出来るかということですね。

 彼女は、日本の病院全体が患者が対等な人間として扱っていない。そこら辺に一つの日本の医療の問題点が有ると思いますね。

 本当に患者さんが患者さんとして、人間として、尊ばれ、かけがえのない人間としての扱いを受けているかどうか、そこら辺が一つの問題提起として出てくるところですね。

 しばらく前に厚生省の編集によって、「働き盛りの癌死」という本がでました。これにはですね、愛する家族と共に癌と闘いながら、家族を失った

1300人ぐらいの方々の手記が集められています。その中にいろんな人がいろんな問題を書いていましたけども、ある患者さんの奥さんはこう書いていますね、

 「医療の患者に対する対応がとても冷たく感じられた。本人は良くなろうと一生懸命なのに対し、もっと暖かい言葉かけや、忙しいのは解りますが患者の不安に対する、問いかけに答える時間がない、私達にとってはとても大切な命でした」

 「末期医療の患者に携わる医師や看護婦が本人、家族の痛みが解るような誠意のある診療治療をしてほしかった、誠意がまったく感じられませんでした」

 柳田邦男さんはこの本について「この本は衝撃的なメッセージだ、読み終えたとき大群衆の叫びに接した時のような圧倒的な意を感じ、激しく心が揺さぶられるのを感じる」とこの本について、コメントしていました。

 本当にそこですね、日本の今、終末医療の抱える問題点が患者さんの側から提起されていると思うんですね。私達が今目指しているホスピスケア、ターミナルケアといわれるものは、終末を出来るだけ安らかに過ごしていただこうとする医療をめざしているものなんですけども、これは日本においても1990年代に入り社会から少しずつ認知されてきたと考えているものです。

 WHOは、緩和ケアとは、ホスピスケアとはどういうものかという事を述べています。

 ここでは、緩和ケアという言葉を使っていますが、「緩和ケアとは、治癒的治療、治すための医療ですね。

 治癒的治療に反応しない病気を持った、患者に対する積極的トータル・ケアですね。普通は治らない患者に対して何もすることはない。

 現代医療はそう言うわけですけど、いやそうではない、そういう患者に対して、積極的にトータルなケアをしていく。疼痛やその他の身体的な症状及び精神的、社会的、霊的問題をコントロールする事が最優先課題である。ターミナル・ケアの

目標とは、その患者やその家族にとっての最高の生命の質を成し遂げる事であります。

 そういうことですね、このWHOの指針はそう述べているわけであります。そういう意味において、現代ホスピスが目指しているのは、次のページに書いておきましたけども、本当に患者さん達が最後の日を安らかに過ごせるように支えていく。

 その為には、患者さんを全人的に支えなければいけませんから、決して医者だけでは出来ないですね、医者を含めた看護婦さん、それから、ソーシャルワーカーとかですね。私達はチャプレンと言っている病院つき牧師さんも一緒に含めてます。

 それから理学療法士とかが加わってチームとなっているのです。その患者さんはどういう治療を

したらいいのか、それを共に考えていくところ、という風に考えています。ですからいうならば「いかに死ぬるか」よりも、人生の終末を「いかに生きるか」を援助するところ、すなわち死までの生を支えるものである。

 場所よりもむしろフイロソフィー、考えかたですね、建物よりも中味を私達は重要視しているわけです。そういう意味において、私達は終末期ホスピスの考え方、思想というものを主に、はホスピスと言うものを考えているわけです。

 そこにおいてまず考えるのは、第一は患者さんが主役であるということ。

 それを考えるときに(レジュメの)一枚目と二枚目に書いておきましたが、まず患者の自己決定権を尊重する。自分で決定する、自分の人生で重大な決定は自分の意志に基ずいて決定する。

 二番目はインフォームコンセント、これはマスコミでよく聞かれる言葉と思いますけども、これは病気の治療法について、患者に充分な情報が与えられた上で患者と医療者の間で合意する。

 医療者と患者さんとの間に合意が成り立つ。

 その患者さんの自己決定権あるいはインフォームド・コンセント、そういうものの基礎には患者さんと医療者とのパートナーの関係が必要ですね。

 上から下へのパターナリズムの関係ではなくて、本当の対等の関係というものが、必要になってくるんですね。私たちが本格的にホスピス医療始めてから8年目に入っています。病棟を開いてから

ですね。

 その前に5年間ぐらいホスピスチームを作って開設準備をしていました。

 最初の頃は、1つの問題は「癌の告知」の問題が出てくるわけですね。日本においてはほとんど癌の告知がなされてないのです。

 私自身は1970年代のほとんど米国で過ごしました。米国で医療をやって日本に80年の11月に帰ってきて12月に日本で医療を始めたわけなんですけども、そこで大きなギャップを感じたわけですね。どういうギャップであったかというと、やはり1つは患者と医者の関係ですね。米国においてはどうしても医者と患者の関係は横の関係ですよね。お互いに医者は医者の世界の専門家でありますが、患者さんは患者さんの世界の専門家であるのですね。同じ1対1の一個の人間としての横の関係、そういうものが強かったんですけども、日本では日本のお医者さんは偉いですね。非常に偉い、だからなんですね、患者さんは医者に自分の言うことを言えないですから、患者さんは非常に遠慮していることが多いいですね。

 どちらかというと、例えば治療法でもほとんど医療者が主体ですね、まず患者さんに癌ということを知らせない。癌を知らせなければ治療法は誰が決めますか。ほとんどの場合は、医療者が決めて、それを家族と話し合う。家族と医療者が話し合って結論したことを患者さんに言うわけですね。    

 自分の命に係わる病気ですね。その治療法の決定に患者が参加する事が出来ないのです。

 自分がある程度癌だと分かってきても周りに幾ら聞いても否定されますよね。最後は聞くこともせずに自分にこもっていってしまう。周りは最後の最後まで隠し通してしまう。

 患者にとって一番大切な自分の生をどうするか、自分の生をどういう風に仕上げていくかという事を、なかなか日本の現状ではできない。

 以前ある患者さんがいました。他の病院から転院されてきました。

私は一通りの検査が終わった後、その検査データーを基にして患者さんに説明して、こう言いました。

 「じつはお家の方々は、御本人の事を思って今まで言わなかったのですが、実は癌だったんです」

 ところが患者さんにこう言うんですね、

 「先生、私知っていました。それで前の病院では、自分のベッドサイドにくる看護婦さん一人一人に同じ質問をしてみました、同じ答えが来るか、試していたんです」

 看護婦さんというのは、患者さんに対して本当のことは言えないですよ、気を使いますから。

 私は一年に二回、兵庫県看護協会主催で終末期医療の講習会をしています。

 看護婦さん達が200人位来られるんです。そこでも休み時間なんか話すと言うんですよ、

 「先生、私達は患者さんに言いたいですよ、だけれどもちょっと患者さんがわかったような口をすると医者に怒鳴られるんです、誰がそんなことを言ったんだと、看護婦は怒鳴られるんですから、私達は言いたくても言えないんです」。

 患者さんに言わないとどうなりますか。

 患者さんはだいたい看護婦さんに質問しますよ

ね。医者にはなかなか質問しない、例えば胃癌の患者さんね、段々癌で腹水が溜まってお腹が張ってくる。患者さんは言いますよね、「段々最近お腹が張ってくる。どうしてなんですか」看護婦さんはどうしますか、ドキッとしますよね。本当の

ことを言ってはいけない。

 「最近便秘しているんじゃないですか、それでお腹にガスが溜まっているんじゃないですか」

 と言ってさっと帰ってくる、所が他の人とちゃんと口の裏あわせをしなきゃいけない。

 ですから、他の看護婦さんい「患者さんがこう言うことを言ったから、こういう風に答えておいた」と言う。別の看護婦さんがまた部屋に行きますよね、「最近食欲がなくなってきました。どうしてですか」。その看護婦さんドキッとします、 

 「さあ何と答えようか」。そうしているうちに、看護婦の意識はどうなりますか、行くのが恐くなってきます、何と質問されるか、何を言われるか、聞かれた時どういう風に答えるか。

 ですからどうしますか? 点滴の袋を持っていってぶら下げたら、さっと帰ってくる、注射したらさっと逃げてくる。

 こういう状況では、患者さんと医療者が本当に良い人間的関係を築くことが出来ない。この病気を隠すために注いでいるエネルギーどうやったら医療者と患者さんの良い関係が築けるかというエネルギーにを変えていかなければいけないですね。 

 私自身の経験からはですね、患者というのは癌を持っていれば解るんです。何時かは自分が命に関わるような、重大な病気は解るんです。

 どっかで解るのです。最後まで隠しとうすか、あるいはどっかで言うか、どっちかなんですよ。 

 どっかで言うなら私、早い方が良いと思いますよね。以前も有る患者さんがいました。お嬢さん二人が面談に来られた。お母さんが大腸癌ですね。肝臓に転移して苦しんでみてられない、「どうか先生見てください」「本人はどのように理解していますか」「いや今ままで隠してきました。母は強そうに見えるのですが、実は弱いのです。母は癌と知ったら生きる望みを無くしてしまいます」。

 家族はだいたい皆こうおしゃるんですね、この家族の言葉ほど信用できないものはないんです。 

 皆さん、自分の主人は、自分の奥さんは、自分のお母さんは、自分のお父さんは、弱いと思っているんですよ。だけどですね、患者さんは皆強いですよ。お嬢さん二人に、私はいろんな事例を話しました。最後まで隠し通す事は出来ない。

 隠し通した場合、本人は気が付いても知らぬふりをしてしまう。そうすると何も言わないまま最後を迎えるんですね、こう説明して、やっとこのお嬢さん二人も了解して下さった。いよいよ御本人との対面です。

 私は「実は大腸癌だったのです。肝臓にも行っているようです」。すると彼女は「先生、私、癌って分かっていましたよ」と言うのです。「どうして分かったんですか」「前の病院で、先生に私は癌かと聞いたんです。すると先生は目をちょっとそらして、違うって言いました。私はそれで癌と解りました」。

 私は患者の観察力は鋭いなあと思いましたね。 

 口は信じないで、目を信じる。

 しかしですね、本当に言葉が言葉として、信じられない世界ほど悲しいものはない。

 本当の言葉が真実の重みを持って語られるような関係、そういう関係を構築しなければいけないのです。お互いにですね。

 知っていながら隠す、お互いに演技みたいな事をやっている。患者さんが終末に対して死に向かってどう生きていくか、非常に重要な時期ですし、患者さんにとっても、家族にとっても非常に大切

な短い時間をどういう風に過ごすか。それが問われて来るんですね。

 ですからその意味において本当に患者さんが、自分の置かれた状況を知って、それに対してどういう風に自分が生きていくか。それを考えるべきなんですね。そういう意味において本当に、患者さんが自己決定権を行使できるような医療が必要なんです。

 それから、私達のホスピスと言うのは、その人の「人生の完成の時」と考えています。

 単に告知するか、しないかの問題でなくてですね、患者さんが、どうやったら自分の残された人生を有意義に過ごし、自分の人生を完成させて行くことが出来るか。これが問題なんです。

 以前ある患者さんがいらしたんですけど、この方は神戸市内の現役の会社の社長、80歳でした。

 最初は、お嫁さんがいらしゃいました。

 大腸癌から、肝臓や肺にも転移している。

 今、痛みで苦しんでいるから、どうぞ見てほしい。三年前に手術してからずっと隠しているんですね。私は私の治療方針を説明しました。

 そのお嫁さんに「先生に後はおまかせしますから、よろしくお願いします」ということでした。 

 それから御本人が登場されたわけです。もう立派な方でした。そして私は一通り診察が終わった後、彼に聞いたんです。

 「御自分の病気について、どのように理解されていますか」。彼、言うんですよね、「3年前に大腸癌の手術をしました。多分今は肝臓と肺もやられていると思います」。

 紹介状に書いてあるのをそのまま言っているんですよね。お医者さんも家族も何も言わないのに知っている。

 「どうしてそのように思われますか」

と聞くと、「最近そっちの検査ばかりしていました」。それで私は、そのまま紹介状に書いてあることを説明しました。それから入院されたんですけれども、入院されてから家族との間に秘密がな

くなちゃったんです。

 そうすると患者さんはどうしますか、自分の命が短いのが分かっていますから、まず自分の人生の仕上げをしようとする。色々仕事のかたずけとか身の回りの整理とか色々します。

 もう一つやることがあります。それは人生のバトンタッチなんです、自分の子供、孫達に自分の人生を回顧しながら語り聞かせ、人生のバトンタッチをしていく。

 日曜日になるとですね、ホスピス病棟には家族の方々が大勢来訪する。すると彼は、お孫さん達に自分はどのような人生観をもって歩んできたか、自分はどういう人生哲学で、会社を経営してきたのか一生懸命聞かせているんですね。

 それからその方は、一ヶ月で亡くなられました。 

 亡くなられた後、お嫁さんが挨拶に来られました。その時にこうおっしゃるんです、「先生どうも有難うございました。立派な遺書が残っていました。遺書のなかには自分の会社をどういう風にするべきなのか。自分の財産どう処分すべきなのか。それから自分の葬式はどうすべきなのか。それが事細かにかいてありました。その通りにして何の問題もありませんでした」。 

 私は何時も言うんですけどもね、癌というのは恐ろしい病気です。それは死に至る病気ですから。 

 しかし癌という死に良いところが有るとしたら何ですか。まあ 無いと言われればしょうがないですけども。他の病気にくらべて良いところがあるあるとすれば何ですか。それは「準備が出来る死」なんです。

 その死に向かって自分の人生を完成させ、仕上げることが出来る。

 その時間が与えられているのが癌による死なんですね、ところが多くの場合、本人にそれを知らせない。その準備をさせない。それが今の日本の問題になって来るんですね。ですから、その意味において患者さんが自分が与えられた状況を把握しながら、自分で自分の人生を決めていくことが出来るということが、ここで非常に重要になってくると思うんですね。

 私は常に感じているんですけども、患者が主役あるいは患者中心の医療というとき、何が問題なのか。私は医療者が問題だと思うんですね。

 医療者が本当に努力しないと患者さんとの対等な関係は出来ないと思いますね。日本ではあまりにも医者が偉すぎて、どうしても力関係で医者は偉くならざるを得ないですね。

 「言いたくても言えなかったひとこと」という本が出てます。その「医療編」。私は買って読んでみたんですけども、患者さんは何を言いたくて言えないのか、そのあたりについて、患者さん達が書いています。

 ある患者さん、「診てもらっている、お世話になっている、看護婦さん、先生に嫌われてはならないと卑屈なまでに頭をよぎる」。

 しばらく前に永六輔さんの「大往生」というベストセラーがありましたね、皆さんも読まれたかと思います。

 その中にこういう話が出ていました。

 主人はさんざん道楽をして、夫婦喧嘩ばかりして、町内で有名だった夫婦がいた。ところが今は仲の良い老夫婦として評判だという。その主人がしみじみとしてこう言ったという「年を取ったら女房の悪口を言ったらいけません。ひたすら感謝する。これは愛情ではありません。生きる知恵です」。これを読んだ時、私 医療者として考えたんです。患者さんがひたすら感謝してしてるように見えてもですね、それが本当なのか、あるいは患者さんの生きる知恵としてですね、医者に対する表現なのか、そこをはっきり見極めなきゃいけない。「患者さんになったら医者の悪口を言ったらいけません。ひたすら感謝する、これは愛情じゃ有りません、患者の生きる知恵です」

 そういう場合が多いんですよね、私自身入院を体験したことがあります。まあ三カ月位入院して最後は手術になってしまったんですけども、私自身 医者として入院しながら、いかに自分が医者だけじゃなくて看護婦さんにも気を使っているか、本当に痛いほど思い知らされました。特に手術後動けないでしょ、寝返りうってはいけないとか、上を向いてじっとしている、動けない。

 その時看護婦さんが入って来ますよね。看護婦さんに頼みたいことありますよね。どうですか、まず何をしますか。まず看護婦さんの顔色をうかがいます、まあ 頼みたいこと5つぐらいあるんですよね。看護婦さんの顔色を見て、さてこの顔色だったら、二つぐらい頼もうかなって感じですよね。まあ二つぐらいこれとこれお願いします、

 それで終わり、そういう風になります、良い看護婦さんなら看護婦さんの方からですね、二つぐらい聞いたところで「他に何かありませんか」にこにこしながら聞いてくれると、他に二つぐらい出せるかなあということになる。めったに自分からやって欲しいこと五つも言い出せませんね、患者さんがいかにですね、医療者に気を使っているかと言うことは、逆に言うならですね、本当に医療者と患者さんの間に対等な関係、あるいは患者さん中心の医療をやろうというのはどういうことか。それはよっぽど医療者の努力がなければできないんですよ。何もしなければ自然と医者が主体の医療になってしまう。医療者がよっぽど謙虚に

なって患者さん中心の医療に徹しようと努力しない限り出来ないと思いますね。

 その辺において何が問題なのか、本当の患者中心の医療をしようとするならば、医者が変わらなければならない。看護婦が変わんなきゃいけないですね。ですからその意味において患者が主役の医療をどういうふうにやり立っていくか。その時ですね、私達はですね、患者さんを見る目っていいますか、相手を尊重してあげる、あり方というものが必要になってきますね。

 第一に患者さんに対する思いやり、患者さんの気持ちを尊重することが重要ですね。

 米国では小さな小冊子で「患者のルール」とか「看護婦のルール」とか本が出ているんですね、まあ「心得集」っていうんですかねえ。

 「看護婦のルール」の一つにこんなのが出てるんですね、「病院では患者は尊厳をもって入院をする。その尊厳を取りさらないように努力しなさい」というようなことが書いてあります。

 尊厳、自尊心と言った方が良いのかも知れませんね、そういうものを患者さんはみなもっているわけです。そういうときに、自尊心を取り去らないような努力が必要と思います。

 ですから毎日毎日の努力、細かい心遣いが患者さんには必要です、患者さんにとって無神経な医療の現場ほど自尊心が損なわれる場所は無いですよね。患者さんは裸にされます、裸にされるときも自尊心を損なわないような、診療の仕方が必要です。

 いろんな検査をされるとき、本当に自尊心が奪わないようなあり方、それが必要だと思いますね。

 以前こういう本を読んだことが有るんですけども、霧山先生ですね、上智大学のカウンセリングの先生ですけども、彼がですね、上智大学で彼のもとにカウンセリングを習いたいという大勢の学生がやってくる。

 その時にですね、カウンセリングのちゃんとした心得を持っているかどうか、彼は一つのテストをやるというんですね。どういうテストかというと、それは「君の名は」で知られる菊田一夫さんの若い頃の話をする。その話はどういう話かというと、菊田一夫さんは若い頃非常に貧乏な書生、学生だったんです。

 ある雪の降る日、空き腹を抱えながら道を歩いていた、向こうに牛飯の屋台がある。そこへ来て牛飯を頼んで、一杯またたく間にたいらげてしまった。ところがですね、まだお腹が空いている。この牛飯の屋台のおじさんはどうするのか。ここに腹を空かしている貧乏学生がいる、お金は全然ないのは明らか、彼はもう一杯食べたそうな顔をしている。

 こういう話をしてから、霜山先生は学生に質問するんです、「あなたがもしこの屋台のおじさんだったら、この菊田さんにどういう声をかけますか?」 腹を空かしてもう一杯食べたそうな顔をしているだけどお金はあきらかにない、そのみじめな学生に対してどういう声のかけ方をするか。

 ある学生は「今日は私がおごるから遠慮しないで食べていきなさい」そう言った、霜山先生はこれはだめだっていうんですね、親切を押しつけているんですよね。

 ある学生は「出世したときに返してくれればいいよ、今日は気がねなく食べて行きなさい」。

 霜山先生はこれも駄目だと言うんですね、ある人は世の中の厳しさを知らせた方がよいそう考えて「お金のない人は駄目だ又どうぞ」。

 ある人は「書生さん食べて行きなさい、一杯ぐらいどういうこともないから」。これも駄目だと言うんですね、その時、この菊田 一夫さんは牛飯の屋台のおじさんに何かの声を

かけられた。その後、彼は帰りの夜道で泣けて泣けてしかたなかった、そういう対応を彼はされたんですね、なんと声をかけられたのか、牛飯屋台のおじさんはこう言ったというんです。「書生さん、今日はあいにくの大雪で客が少なくて困って

いたんだ。すまねえけど一杯助けてくれねえか」。そう言った。

 霜山先生は言うんですね、カウンセリングをする時、一番大切な心得は人の自尊心を傷つけないこと。その自尊心を尊重するようなですね。

 相手に対応する応対の仕方が必要なのではないでしょうか、と言うことを彼は述べているわけです。そういう意味において私達、私自身ホスピス医療を掲げながら、本当にですね、終末期の患者さんたちが、病気の進行と共に一つ一つ、自分の能力が失われて行くわけですね。

 体力が失われ、社会的な身分が失われ、そして最後は自分自身の命というふうに、全てのものが失われていくわけですね。

 最後は自分自身の存在というように全てが失われていく。そういう状態にあってどうやったら最後まで患者さんが自尊心を持って生き抜くことが出来るか、それを考えなきゃいけないと思うんですね。患者さんが主役と言うことで(シラバスの)3ページのですね、全人的なアプローチ、そこにおいて常に人間としての患者さんが一体どうなのか、そういう見方が必要なんですね。

 「患者の病気」ではなく「病を持った人間」という視点、これは現代医学に欠けているところだと思います。

 病院に行けば、循環器科 呼吸器科 泌尿器科、全部人間を臓器別に分けているんです。

 そうじゃなくて、病を持った人間というそういう見方ですね。ですから一人一人がかけがえのない存在という認識から死にゆく人の固有性を尊重する。最後まで尊厳を持って、その人らしく死にゆくことが出来るよう援助する。

 これこそが癌患者の究極の目標ですね、ホスピスではトータルペインという言葉を使います。

 「トータルペイン」をなんと訳すのか?

 「全人的苦痛」と訳しておきましたけども、患者さんは身体的、精神的、社会的、霊的なそういう側面をもった人間としてすべての側面を持った人間として、すべての側面を考慮したところのアプローチですから、目標としては全人的苦痛の除去が必要になってくると思いますね。

 これはエリック キャセッルという方の言葉を引用しておきました。彼はいろんな本を書いています。日本においても「医者と患者」という本が訳されて出版されています。彼は1991年に「苦難の性質と医療の目標」という本を書いていますけども、彼はこの中でこう言っているんですね。「ある医学体系が適切であるかないかのテストは苦難という問題に照して判断されるべきである」この本は現代医学がこのテストに失敗したという前提で書かれている、20世紀の医学の問題は病める人間にではなく病気に焦点を当てるという過ちを犯したことにある。

 苦難は必然的人間に変わるもの、なぜなら苦難を受けるのは人間であって人間の身体ではないからだ。21世紀の医学の課題は人間の発見である。

 すなわち人間のなかにある能力を示すと共に人間の中における病気と苦難の原因を発見しその知識に基ずいて、それを和らげる部分を開発するこ

とである」。この本は米国で出版されたとき話題になりました。

 米国の内科学会雑誌では、普通は書評なんて一人分しか載せないのに、この本に関しては二人の書評を載せました、これはアメリカの内科学会に非常に大きな影響力を与えています。

 これの日本語訳が出てくればいいなあと思います。これは人間の発見、人間を全人的に見ていくような事が、現代の医学に欠けているのだと思います。それから3番目にスピリチャルケアということですね。これはおそらくアーユルヴェーダの方も非常に関心持たれていることだと思いますけども、やはり患者さんをケアするとき、まさに終末期において、全てのものを失われていく中にあ

って、何を与えることが出来るのか。ここに書いておきましたけども、「虚無に代わって意味を、絶望に代わって希望を与える」ことが必要です。 

 本当にホスピスケアにおいて意味と希望いかに与えていくのか。意味と希望がある限り人間は生きることができるんですね、これが無くなったとき人間は絶望に陥ってしまう。生きる希望が無くなるんですね、ここにニーチェとスタシャクという人の言葉を書いておきました。

 いかに意味と希望というようなものが重要であるか。そして次のページになりますけども、いわゆるスピリチャルケアの具体的な目標として四つ挙げておきましたけども、本当に患者さんが自分の人生をいかに創りあげていくのか、何かそこに未解決の問題、人生の総括つまり死の準備ができない問題があれば、それを解決していくことが非常に重要になるんですね。

 これが1番最後にですね、死の受容、あるいは諦めと言うことになるんですけども、私達、患者さんを見ていても、ほとんどの方は死に向かって自分の死を受容していくのです。

 ところが受容できない患者さんがいる。

 死を受容できない場合は、諦めです。これは生の絶望的な放棄です。

 ところが死を受容出来ない患者さんというのは、何か未解決な問題をもっている場合が多いのです。 

 その場合、人間関係に起因するものがほとんどです。その人間関係の多くはは家族との関係が上手く行ってない、それが死の受容が出来ない原因になります。ですから、患者さんが死を前にして抱えている問題を解決出来るように援助することが重要なんですね。

 以前もある患者さんがいました。70歳位の方ですね、段々体が弱ってきて誰も見舞いに来る人がいない、天涯孤独。彼の話を聞いてみました。

 「何が今一番不安ですか。なにが一番気がかりですか」、「自分に何かあったとき、誰も面倒見てくれる人がいない、それが不安だ」ということでした。彼の話を色々聞きました、そしたら彼には昔別れた奥さん、そして息子さんが2人いることが分かりました。私達は一生懸命息子さんを捜しました、関東にいるという事が分かりました。やっとですね、職場が解ったんですね。私職場へ直接電話入れたんです。いきなり私から電話があって息子さんびっくりしていました。

 私は「実は貴方のお父さんが胃がんで入院している。もう余命いくばくもない。一度でよいから見舞いに来てくれないだろうか」。彼は電話の向こうでだまっていました。私は沈黙の電話に向かって話し続けたんです。

 「お父さんにとっては、今が一番大切な時、誰かに来てほしいんです。お父さんは、最後の看とりをしてくれる人が誰もいないのは一番不安だ、と言っておられる。どうか一回でもいいから見舞いに来てくれないだろうか」。

 彼は最後にこう言ってくれたのです。

 「分かりました。じゃ親父に、自分がちゃんとやるから心配するなと言って下さい」。そう言うことで電話が切れました。私は早速彼の病室に行って「息子さんから連絡が付いた。息子さんが全部自分が責任を持ってやるから心配するな、と言ってくれた」。と報告しました。

 本当にその時彼はほっとした安心した顔をしたんです。それから2〜3日したら彼が来てくれたんですね。関東からはるばる神戸に来てくれた。

 神戸には一度も来たことがない、初めて神戸に来てくれました。

 それがただ彼だけじゃなかった。別れた前の奥さんも一緒だったんですね、何十年ぶりかの再会でした。帰り際、奥さんがおしゃるんですね。

 「こういうことがなかったら二度と会うことはなかったと思います」。

 そう言って帰って行かれました。「又何か急変したらすぐ教えて下さい。またすぐに来ますから」 とその長男の方はおしゃった。それからしばらくして、病状がかなりすすみ、連絡しました。

 早速、また来てくれました。

 その時長男の方は写真を持ってきたんですね、自分の弟の結婚写真をもってきました。そしてお父さんに結婚写真を見せるわけです「親父、弟は良い嫁さんをもらったんだ、これがその結婚式なんだ」その時お父さんは意識はなっかったです。 

 しかしその意識のないお父さんに向かって一生懸命手を握りながら、息子さんが次男の方の結婚式の写真を見せていました。それからこの方は息子さんに手を取られながら亡くなりました。

 本当に最後に死の受容どういう風にするのか。 

 もし、そこに受容を妨げるようなもの未解決の問題があったらそれを解決する。

 どうしたら、本当にその人とって良い別れになるのか、それを私達はいつも考えて行かなければならない。別れの時というのはですね、本当に寂しく悲しいことなんですけども、これは癌を隠していると本当の別れはできないですね。

 告知をしていないと、本人と言うよりも周りの家族が死に直面することを最後まで拒否してしまうのです。最後の場面での別れをいかにするのか、これは実に重要なことだと、ホスピス医療をやってきて思います。以前こういう風なことがありました、別れお挨拶をするのはだいたい夕方なんですけども、病室を訪ねて出て行こうとすると、患者さんはこう言うのですね。

 「先生、先生」私は戻りまして、ベッドサイドにいきました「先生、長い間お世話になりました、どうもありがとうございました」私は彼の手を取って「今まで苦しかったけども、本当によくがんばりましたね」と言ったのです。さらに彼は横にいる看護婦さんにも向かって言うんですね「看護婦さん長い間お世話になりました。ここにいない他の看護婦さんにもどうぞよろしく言って下さい」。ちょうどそこに奥さんがいらっしゃたんですね。奥さんを手招きして、彼に奥さんの手を握ってもらったのです。すると彼はこう言ったのです。「長い間世話になったなあー、本当にありがとう」奥さんは声が出てこない。ただポロポロ涙ながして彼の手を握り返すだけ、そしてそれから彼は2〜3日後に亡くなりました。

 その後、奥さんに会ったときおっしゃいました、

 「先生 死の別れということは本当に辛く悲しいことです。しかし、主人が私の手を握って、「長い間世話になったなあ、ありがとう」と言ってくれた。まだあの主人の手の温もりがあります、それがあるから、私は今生きてゆけるんです」

 そう言っていました。本当にホスピスという所は、人が亡くなっていく場ではありますけれども、患者さんができるだけ、その人らしい生を生きながら最後に本当に家族と良い別れをして良い人生の仕上げをするのを、お手伝いをする所と考えております。本当の患者さん中心の医療というのは、どういうものなのか、患者さんとその家族にとって満足に行く医療、そういうのはどうあるべきなのか、それを今後とも追求していきたいと考えています。どうも有難うございました。


資料篇  以下は山形先生の講演のさいのレジュメ   1999年10月3日(日) 奈良県文化会館 第21回日本アーユルヴェーダ学会総会第2日目   「現代医療から未来医療へ」    神戸アドベンチスト病院  山形謙二

 

医者中心の医療から患者中心の医療へ

ホスピスから探る未来医療 

 

 I.現代日本の終末期医療の問題点

1)過剰な検査と処置

   スパゲッティー症侯群:モニター類とチューブに囲まれた死。

   あたかも戦場におけるような壮絶な死

   (人間らしく尊厳を持って死ぬこととは?)。

 

2)終末期医療に対する医療者の無関心

   死は敗北との意識(不治の病に対する医学的興味がない)。

   末期患者は病院のお荷物的存在(治らない病気になると転院を勧められる)。

   人間存在の最後の完成としての死:どんな患者でも十分な心のこもったケアが必要。

 

 「何が何でも、今の日本の状況が続く限り、日本では死にたくないと考えます。一人の医師やナースの問題ではなくて、日本の病院全体が、患者を対等な人間として扱っていないと思うからです。・・・そんなに死が恐ろしくないと感じている理由は、医師たちが私に嘘をついたり、隠し事をしない、という確信

に基づいています。私に何がおころうとも、きちんとした説明がなされる、という確信、これほど心静まるものがあるでしょうか。逆に医師との信頼関係なしに死を迎えるとしたら、これほど苦しいものはないのではないかと思います。・・・一つの文化の高さを計る尺度はいろいろあると思いますが、国民が豊

な気持を抱いて死ねる社会が建設できれば、その文化は非常に高い水準にあると言えるのではないでしょうか。」                    

(千葉敦子「よく死ぬことは、よく生きることだ」)

 

3).ホスピス・ケア(緩和ケア)とは

 「(緩和ケアとは)治癒的治療に反応しない病気をもった患者に対する積極的トータルケア(the active total care)である。疼痛やその他の身体的症状、及び精神的・社会的・霊的(Spiritual)問題をコントロールすることが最優先課題である。緩和ケアの目標とは、患者とその家族にとって最高の生命の質(the best quality of life)を成し遂げることである。」     (WHO TechnicalReport Series p.804,1990)

 

現代のホスピスとは:

 末期ガン患者さん達が安らかにその最期の日々を過ごせるように関係者がチームとなって援助する所。

 「いかに死ぬか」よりも人生の終末を「いかに生きるか」を援助するところ、すなわち「死」までの「生」を 支えるところである。場所よりもむしろフィロソフィー(思想)、ハードよりもソフトである。

 

1.患者が主役

1)患者の自己決定権:自分の人生での重大な決定は自分の意思に基づいて決定すること。

2)インフォームド・コンセント:病気と治療法について患者に十分な情報が与えられた上での合意。

3)パートナーとしての患者と医療者:パターナリズムからの脱却。医療者に求められる謙虚さ

 

 あくまでも患者さんこそが主役であり、医療者はそれを援助する者である。ホスピスでは、患者さんの価値観、人生観を最大限に尊重しながら、患者さんが望むものを行う。そのためには患者さんが治療の決定に参加することが重要であり、病名告知と病状の詳しい説明は前提となる。

 

 ホスピス・ケアの土台:「症状コントロール」と「心のこもったケア」。

            それを支えるのが、十分なコミュニケーション。

 

  そのためには、@患者さんに医療者の時間を十分に与えること、あるいは時間を注ぐことが重要。

         A患者の尊厳を尊重し、決してその自尊心を傷つけないように配慮が必要。

   

 ガン告知するかどうか自体が問題ではなく、どうしたら患者さん自身と医療者・家族との心と心の通いあった医療ができるかが問題である。ガン告知は、一回きりの宣告ではなく、患者と医療者との間のコミュニケーションの一部として考えられるべきである。充分な情報が与えられた上で、患者自身が治療法の選択に参加でき、家族と相談しながら、その後の生き方を決められることが重要である。

 「嘘をつかれていないという安心感が、どんなにか心を平安にしてくれることか。嘘をつかれていると、人生で一番心理面での援助を必要としている時に、家族友人との心の交流ができなくなるという、患者さんにとって最も残酷な事態に陥ってしまう。」    

(千葉敦子「よく死ぬことは、よく生きることだ」)

 

2.全人的アプローチ

 「患者の病気」ではなく「病いをもった人間」という観点が重要。一人一人がかけがえのない存在であるとの認識から、死にゆく人の固有性を尊重して、最後まで尊厳をもってその人らしく生き抜くことができるように援助すること、これこそが、がん患者のケアの究極の目標である。

全人的苦痛(トータル・ペイン)に対する総合的アプローチ

 シシリー・ソンダーズは、がん患者の疼痛に対する全人的視点の必要性を述べて、この複雑な疼痛経験を「トータル・ペイン」と表現した。

 患者の疼痛体験の身体的・精神的・社会的・霊的側面を考慮した総合的アプローチが必要。

 

 ホスピス・ケアの成功の指標は「全人的苦痛の除去」

 

 「ある医学体系が適切であるか否かのテストは、苦難という問題に照して判断されるべきである。この本は現代医学がこのテストに失敗したという前提で書かれている。・・・20世紀の医学の問題は、病める人間にではなく、病気に焦点を当てるという過ちを犯したことである。苦難は必然的に人間に関わるの

である。なぜなら、苦難を受けるのは人間であって、人間の身体ではないからである。・・・

 

 21世紀の医学の課題は、人間の発見である。すなわち人間の中にある能力を示すと共に、人間の中における病気と苦難の原因を発見し、その知識に基づいてそれを和らげる方法を開発することである。」

 エリック・キャッセル(The Nature of Suffering and theGoals of Medicine,1991)

 

3.スピリチュアル・ケア

 「虚無に代って意味」を、「絶望に代って希望」を与えるケア」。

 「人を怒らせるのは、苦痛そのものではなく、苦痛の無意味さである」

                               (哲学者ニーチェ:道徳の系譜)

 

 「人間は鋼鉄のように強い神経を持っています。その神経に絶えず希望という小川が流れている限り、人間は耐えられるのです。」

               (アウシュビッツを生き抜いたポーランド人、スタシャック)

 

スピリチュアル・ケアの課題

1)「人生の総括」への援助。

 自分の人生を振り返り再評価することにより「生きていて良かった」と実感できることが大切。

 人生史を語ること、アルバム・手紙・日記の整理、思い出の物の片付け・整理(遺品の選定・贈与)、家族・友人への感謝(あるいは和解)など。

     

2)「死の準備」への援助。

 迫り来る死への準備と人生の子供・孫へのバトンタッチ。

 遺言の作成、葬式の準備・計画、墓の用意など。

 

3)「固有性の確認」への援助

 自分は自分であるが故にかけがえのない大切な存在であり、その固有性の故に人々の記憶の中に生き続ける、という希望。

 「自己実現」への援助:生きていることの手応えを感じるような行為を成し遂げること。

 何かを成し遂げたという人生のモニュメントを残すこと。

 自分史・手記・闘病記の出版、作品(絵画、詩集など)の完成など、

 

(4)「永続的価値観への目覚め」の援助。

 危機的状況の中で人生の意味を発見し希望を持ち続けるためには、永続的なものとの関わりにおいて本来の自 己のあり方を理解することが重要である。永遠に変わらない真理とは、死をも乗り越えていく価値とは、いったい何なのか。究極のスピリチュアル・ケアとは、それを患者さんと共に探求していくことである。

 

4.適切な症状コントロール

「症状そのものが病気である

 (Thesymptoms are the disease)」(T.D.Walsh)との視点が重要。

 その視点から徹底して症状のコントロールに最大のエネルギーが注がれる。

 ターミナルケアの成功の指標は、症状コントロール、すなわち苦痛の除去である。

 

「急性症状症候群、Acute symptomsyndrome」

 疼痛やその他の不快な症状をできるだけコントロールすることが大切な課題。

 人は疼痛から解放されて初めて人間的生き方が可能となる。

 「ガン患者は疼痛治療を要求する権利があり、医師にはそれを行う義務がある。有効な治療法があるの  

  に、それを用いない医師には弁解の余地がない。」(WHO、1989)

 

1)積極的に疼痛コントロールを試みること。

  患者が痛みを訴えるまで待たないこと。よく尋ね観察すること。

 

2)痛みの原因を正確に診断すること。

 

3)定期的に、適切な鎮痛剤を、適切な量とルートで投与すること。

 (持続的痛みは、患者が要求した時や痛みを訴えた時などのいわゆる「頓用」

  ではコントロールできない)

 

4)繰り返し定期的に評価すること。

 

5)共感、理解など精神的ケアの重要性を決して忘れないこと。

  薬剤は患者の全人的ケアの一部にすぎない。

 

日本の医師の疼痛治療に対する無関心

 世界各国の1日あたりのモルヒネ消費量

 (g/100万人、1996年)

   1.オーストラリア 97.8  2.カナダ 84.8    3.イギリス 84.3  

   4.アメリカ 59.0     5.フランス 43.9  6.ドイツ 16.2    7.日本 11.0

 

モルヒネ使用時の留意事項

 モルヒネの最適量とは、「耐えられない副作用をもたらすことなしに、痛みを除去するのに必要な量」であり、時には、大量のモルヒネを必要とすることがある。モルヒネを鎮痛剤として使用している時は、投与量の上限はない。モルヒネ投与過多の場合は、傾眠がちになることが多く、増量しても疼痛がコントロールされない場合は、モルヒネが効かない痛みの可能性を考慮すべきである。

 

5.家族に対する援助。

  家族の問題は往々にして日本の医療現場で忘れられがちである。終末期においては、苦しんでいるのは、決して患者さんだけではない。家族も一緒に苦しんでいることを医療者は常に心に留めておく必要がある。患者は家族の中の一人であるとの位置付けから、家族をも含んだアプローチが必要となる。

 ケアに家族を参 加させる(チーム医療)と共に、家族にも十分な説明が必要である。

 家族が抱いている不安や悩みを共有し、家族へのいたわり、ねぎらいを忘れてはならない。

 

6.死の受容:人間存在の最終的完成としての死

 エリザベス・キュブラー・ロスは、「死への段階 (Stages of Dying)」について述べている。

 まず人間は、死に至る病をもっていると分かった時、衝撃(Shock)を受ける。その後の段階を、彼女は次の五つの段階に分けている。

  1. 否認(Denial)   2. 怒り(Anger)  3. 取り引き(Bargaining)

  4. 抑鬱(Depression) 5. 受容(Acceptance)

 

 「死の受容」と「あきらめ」。

  受容:死を静かに受け入れる。周囲に対して感謝する。

  あきらめ:絶望的な生の放棄、周囲に対して攻撃的。腫れ物にさわる様な感じ。

  未解決の問題を抱えているとき。ほとんどの場合は家族の人間関係。

 

 「別れのとき」

  別れの挨拶:手紙を残すか、口頭での別れの挨拶。

  「お世話になりました」あるいは「今まで色々有難うございました」という表現。

 

When I was born, people were happy and smiling.  

 私が生まれた時、みんなは喜こび微笑んでいた。

I was the only one crying. 

 泣いているのは、私一人だけだった。

When I died, people were sad and crying.    

  私が死んだ時、みんなは悲しみ泣いていた。

I was the only one happy and smiling.     

 喜び微笑んでいるのは、私一人だけだった。

(ロスアンジェルス近郊のイースト・サン・ゲイブリエル・ホスピスのパンフレットより)

 

 「わたしは、病院は原則として人間と人間との愛の場所であるべきだと思っています。

 なぜなら、そこでは人間が苦しんでいるからです。人間が死んでいくからです。

 わたしは医学が他の科学の様に純粋に科学的な学問だけとは思いません。

 なぜなら医学は人間の苦しみと闘う学問だからです。 

 人間の苦しみに手を入れる学問だからです。よろしくお願い致します。

                     (遠藤周作「あたたかな医療を考える」39頁)

  
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