アーユルヴェーダ『プラーナ』

渡 邉  敏 子

(命=プラーナ)

 

 食物は命あるものの命なり         

 世の人は食物を競い求めるものなり

 

 顔色も、気分も、美声も、

 命も、聡明さも、幸福も、

 

 満足、滋養、体力、知恵も

 すべては食べ物に依存している

 

 口に糊する世俗の行為も

 天界へ赴く祭式行為も

 

 解脱のためといわれる行為も

 みな食物に依存している

    (チャラカ・サンヒター I−27 - 349 ~ 351 )


  ★〈プラーナを食べていますか?〉

 アーユルヴェーダを勉強中「食物とはプラーナあるもののプラーナです」という詩が出てきて、ちょっと悲しくなりました。死ぬまで生き物の命を食べないといけないからです。

 「しかし本当に私はプラーナを食べているかな?」と疑問に思いました。コンビニエンスストアなどで売られているほとんどの食物にプラーナを感じることはありません。フリーズドライや冷凍、解凍、レトルト加工などの技術の発達により、口にするものの多くは、とうの昔にプラーナを失ってしまったものです。栄養学に基き、糖質、脂肪、たんぱく質、ビタミン類、食物繊維をバランスよく含んだクッキー状の食物に象徴されるように、命をいただくという概念すら薄らいでいるのが現状です。

 インドで料理人のことをマハーラージャ(大王)と呼ぶのは生殺与奪の権をもっているからだそうですが、私はずい分それを加工食品メーカーに譲ってきてしまいました。アーユルヴェーダは愛情ある調理人によって十分調理されたものをできたての温かいうちに感謝して摂るように教えています。

 改めて考えると以前の日本の食卓はそのとおりで、まさにプラーナに満ちていました。食材も、お米や胡麻、豆は植物の種なので、芽を出し成長させる程の充分なプラーナがありますし、納豆や味噌、醤油、漬物などの発酵食品は、非常にたくさんの小さな命を一度に食べることになります。身体の調子の悪いときは、ヨモギ、スギナ、ドクダミなどの野草をお茶にしていただきますが、それらの野草は何度むしっても生えてくる程生命力の強い植物です。

 今やそれらの野草茶もペットボトルに入っています。都会に住む多くの人々が「最近疲れやすくなった」と嘆くのは、歳をとったせいではなく、プラーナに枯渇しているのではないでしょうか。生殺与奪の権を自分の手に取り返すように努めたいと思います。

 

  ★〈いただいたプラーナの浪費〉

 また、食べ方もとても不自然といえます。例えば、食べても満足感がなくてついつい過食したり、菓子パンやホットケーキを食事がわりにしたりしてしまうこともあります。

 先日、タイの僧ニヤーヤさんにお話をお伺いしましたが、彼のお寺では一日一食だそうです。驚いた私に彼は「日本から来る人の多くは『一食でも平気なものですね』と言いますよ。

 テレビや雑誌、コンビニエンスストアがないのでお腹が空かないんじゃないですか?」とおっしゃいました。チャラカも「快適な消化を起こすには一日一回だけ食事をするのが良い」と言っています。

 そうだとすれば日本人は全員不自然な食べ方をしていると考えられます。私は日常目の前を通り過ぎていく大量の情報に気を取られ、周りの人に自分をどう見せたいのか気を使い、自分の財産の維持管理に気を配って、プラーナを使い果たしているようです。そして人一倍よく食べるのですが、プラーナがないものをいくら食べてもちっとも気が満足しないので、つい過食することになり、また余計な事に気を揉むのです。

 

  ★〈プラーナのない食事と健康〉

 アーユルヴェーダで食事や薬について勉強するときに必ず出てくるのが「パッティヤ」と「アパッティヤ」という単語です。あの病気にはこの食べ物がよい(パッティヤ)、よくない(アパッティヤ)とか、この薬を飲むとき、あわない(アパッティヤの)食物はこれとこれ……というように使われますが、それは「パタ(道路)」という言葉からきています。身体の道路、つまり管(スロータス)の健康に良いものか、詰まらせるものかが問われるわけです。

 以前、ある在日のスリランカ人が足の関節を痛めておられました。日本では治らず数年前帰国してアーユルヴェーダ医に見せたら治ったと言います。「今度帰国したらすぐお医者様に行かないといけませんね。」 「いいえ、いつも一週間経ってから行くんですよ。」 「どうしてすぐ見せないんですか?」

 「医師は診察したあと薬の処方箋の外に、食べたらダメなものを書いてくれますが、紙片にびっしりとあるんですよ。帰国後まず、おふくろの味を十分味わい、懐しい友人達と何度か食事をしてから、医者に行くことにしています。悪い患者ですねえ。」

 アーユルヴェーダがそれ程詰まることを恐れている管とは、七つのダートゥの通路と空気、水分、食物、便、尿、汗の通路であるのはご存知の通りです。そして現代的解釈では細胞内の分子レヴェルの輸送も含まれ、まさにスシュルタの表現どおり、「身体じゅう管だらけ」です。そしてその管に詰まりのないことが、アーユルヴェーダの健康の条件なのです。 アーユルヴェーダの医師はプラーナのない食べ物について次のように言っています。

 毒となるのは死んだ食べ物です。生気をなくして動かなくなった食べ物です腐敗した食べ物の死骸が、消化管に詰まり、血の管にも詰まり、リンパの管にも、風の管(神経)にも詰まり、身体と心を、心と魂をつなぐ神秘で微細な管にも詰まり、その中を音をたてて流れる生命が濁り、痩せおとろえ、ついには堰止められ、代わって身体のあちこちで苦痛の悲鳴があがるようになります。 (「身体にやさしいインド」伊藤武著より) 

 プラーナのない食べ物が氾濫し、ベビーフードまで多種普及している最近、なるべく多くの人にこのインドの知恵を知ってもらうことが大切です。食べ物が消化され、最後につくられるのがシュクラ(卵子、精子)とオージャス(活力、免疫)です。不妊症の男女の増加や、子供のエネルギーの低下は、人類の未来にもかかわってきます。

 

  ★〈食べ方と生き方〉

 今迄、プラーナのない食物と表現した食物も、もとをたどれば確かに生命を宿したものでした。それを非常にまずい調理の仕方をしてプラーナをなくし、さらに食べて得たエネルギーはエゴの為に使い果たしてきたのです。もうそんなお行儀の悪い食べ方をやめたいと思いました。 私は現在三十歳ですが、三十年間三度三度途方もなく沢山の大切な命をいただいてきました。学校に行って勉強ができたのも、いろいろな経験ができたのも、そんな多くの命のおかげです。チャラカのいうように、アーサナも呼吸法も瞑想も、おいのりも奉仕も、よい勉強ができるのも全部、命に支えられてこそ、させていただけるのです。

 これからも私は、ずうっと命を食べ続けるわけですが、死んで他に命を捧げる生き物におとらぬように、一食一食命に感謝し、丁寧に食べて、その命を生かせるように丁寧に生きて行きたいと思います。


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