演劇評論・芝居行伝/東光寺ライブラリー
       

***** 演劇評論・芝居行伝/山内宥厳 *****

a cover of Engeki-tsushin /1977

  
   
------ 目次 ------
    
    1ページ
 太初にことばありき

ことば 
二人の画家 
構成について 
映画スター 
ご苦労さん 
良し悪し 
新劇的EYE 

    2ページ
 唐十郎の舞台から

流れ 
群集 
せんべい 
田舎歌舞伎 
請求書 
李礼仙 
演技について 
再確認 
戦争を知らない子供たち 


          *** ことば/「あめんぼ座」の朗読 ***  太初にことばありき、とはバイブルの文句だが、文学・論文・広告にしろ、言葉 という ものをメディアとして成りたつ。演劇というのは元より言葉の芸術の最たる ものであるが、 最近は文学でも、文章の良し悪しなどはさして問題にはしないのか 、そういうことをマス コミの小説評などでも、触れているのをついぞ見なくなった 。 名文とか悪文とかを云々するのはもはや古い感覚だと、言われるのかも知れない 。 しかし、ことばは乱れている、というのが、現代の通念であり、日本人は年々言 葉に弱く なって来ているのが現実である。  外国語に弱いのみか、日本語もからきし駄目というのが大半である。  青少年のみ ならず日本人全体の学力がおとろえているということは、言いかえれば文字 をろく に知らないということで、マンガの週刊誌を、一人前の男女が夢中になってひろげ ているのを見ると、日本という国の行末が、目の当りに見えてくる気がする。  きれ いなことばを使うとか、いい文章を書くとかいう努力は、昨今はどこかへ行ってし まったか、詩などでも、ことばの美しさに惹かれるようなのには、めったにめぐり 会わない。  芝居の世界でもほぼ事情は同じで、ことばに対して、特別意を払っていると感じ られる 舞台はめったにない。日常の話しことばを、やや声高に発している程度のこ とで、話しこ とばの専門家などとは言えないようだ。    ところが昨年の四月十三日、知人に誘われてみに行った京都の女性ばかりの「あ めんぼ座」 という劇団の舞台に接して、少なからず感嘆した。  芝居ではなく、富岡 多恵子他の詩人の詩を構成したいわば朗読であるが、出演した女性 たちの発する日 本語はよく訓練された、明瞭で美しいことばであった。  舞台を志す人間が、劇団と いう自らが選びとった場で、発声練習をして観客に一夜の芝 居を堪能させるのは、 当然の義務だが、そういう習練というのは、指導する演出家なりの、 ことばに対す る理念、きびしい意識なしでは成り立たない。  そういう意識が第一義のものとして 「あめんぼ座」の指導者にあるということが、彼女 たちの舞台から伝わって来て、 見たかいがあったと思ったが、願わくば書き下しの作品を 上演すべきである。        (山口竹彦構成演出「言葉の解体と造型について」森の宮教育センターホール) トップにもどる


                    *** 二人の画家・滝沢修のゴッホとセザンヌの舞台 ***  最近、滝沢修の演出・主演する三好十郎作の「炎の人―ゴッホ小伝」をみた。 いく度目かの再演だと思うが、私は今回の舞台が初めてである。  滝沢修の名舞台だとの評判であるから、楽しみにして行ったが、評判ほどではな いという のが、私の感想である。導入部の、炭坑の場面などは、少し左がかった自 立演劇の臭いがあ り、書かれた時代背景というものもあるのだろうが、いまの私にはこの炭坑の場面からは古 くささを感じるだけである。  現在の私たちの生活感覚 に、それだけの受けとり方の変化というものが出て来ているとい うことかも知れな いし、もし三好十郎が今日、存命していて、いま書き下すとすれば、ちが った導入 部になったかも知れないと考えさせられた。  滝沢修のゴッホは、気分が終始泣き言 の感情で支配されていて、貧しい貧しい心のヴィン セントよ、というエピローグの 詩の感情にひきずられている。  だから泣きのゴッホとでも言おうか。  ゴッホは豊か な感情の汪溢する人間でもあるのだが、そうした面が表現されないので、す こしも 「炎の人」らしくないのである。                       (大阪労演一月例会 厚生年金中ホール)            ***「熊と呼ばれるあいつ― セザンヌ」「関西芸術座」***  もう一つの芝居はセザンヌだが、昨年「関西芸術座」の「熊と呼ばれるあいつ― セザンヌ」 (柴崎卓三作・道井直次演出)をみたのを想いだす。  すこし日が経って いるが、印象は生々しい。  というのは、私はセザンヌ氏の伝記を読んだことはない ので、あの芝居で描かれていること は、そうなのだろうと思う他ないようなものだ が、セザンヌという人間については、舞台から 受けるような男ではないという気が してならなかった。  あの舞台で演じられたようなのが本物のセザンヌなら、セザン ヌの絵は一枚もこの世に存在 しないと思うからだ。  この私の直観というものは、多 分正しいだろう。  芝居をみていて、なるほどそうかと思わせないで、あんなものじ ゃないな、と感じさせる舞 台というのは、決していい芝居ではない。  そういうのは 、所詮、絵空事であって、観客のこわさを知らない人間の作り事である。  劇場とい う場所は、観客に真実のいい波動を伝える、気分の高い場所である筈で、次元の低 さをなげきに行く場所ではないのである。  これは観客が劇場で享受する権利である ことを忘れてはならない。  本物のセザンヌが太った男であったか、やせっぽちであ ったかは知らないが、あの舞台のセ ザンヌのように、うすっぺらな男でなかったと いうことは、ちらりとセザンヌの絵を思いうか べて見ただけで分るというものであ る。                      (昭和51年10月7〜8日 郵便貯金ホール) トップにもどる


     *** 構成について/松本清張原作寺島アキ子脚色「霧の旗」 ***  「潮流」という劇団の松本清張原作の推理小説「霧の旗」寺島アキ子脚色、大 岡欽治演出) の舞台化をみた。  弁護士が、ある事件の弁護を断ったために、依頼に 来たその娘から、獄死した兄の復讐をと げんとねらわれる話である。  一口に言うと 、原作はどうであるか知らぬが、舞台を原作者がみると、多分気をわるくする だろ うと思った。  芝居としての構成に工夫のたりないところが多く、やたらに場面の転 換が多くて、しかも舞 台装置はくどいほどに写実的であるのに、弁護士の室の大き な書棚には、一さつの書物も入って いないというふしぎさである。  役者は熱演であ って、わるくもなく下手でもないのに、脚本と装置で芝居をぶちこわしている とい う、構成上の失敗である。  演出の眼が利いていない。あれでは役者に気の毒で、舞台美術というものは、必要にしてか つ十分という基本の美を求むべきであろう。                                 (第18回公演 昭和51年10月1〜2日 郵貯ホール)      **** 釈迦とその弟子から「愛憎大河」(鶉野昭彦作)****  「やわらぎ」というのは四天王寺学園のOBたちで作られている、女性ばかりの 素人劇団 である。「釈迦とその弟子」という、五井昌久という宗教家の書いた小説 を劇化した舞台が 「愛憎大河」(鶉野昭彦作、藤木邦夫演出)である。  素人の劇団 で年に一、二回は公演を持っているそうだが、この芝居をみて構成の良さとい うも のを感じた。  脚色がしっかり出来ているのだ。  芝居というものの、いかにあるべき かを、この脚本家はよく知っている。  したがって、舞台の流れにも淀みがなく、転 換のかなり多い舞台だが、照明もそれにつれ て素人劇団にありがちなミスがなかっ た。  釈迦を始め、その弟子たちの配役の仕方も、演出家はよく心得ていて、つぼに はまってい る。戦争あり、恋ありで、盛り沢山の長丁場だが飽きさせないのである 。  宗教劇というのはえてしてくそ面白くもないものだが、変に深刻な新劇ぶらなか った点で も成功した芝居といっていいだろう。    新劇というのは、とかく高級ぶってつまらないふくらみのない舞台を作りがちで あるが、 芝居の精神というのは、楽しみを与える、楽しんでいただくということに あり、そのことに 腐心するのが素人、玄人を問わず芝居を作る人間の楽しみであり 、芝居ごころとでも言うべ きものである。                        (昭和51年11月4〜5日 四天王寺会館) トップにもどる


                   4  *** 映画スター/仲代達矢と加藤剛のジュリアスシーザー ***  映画スターなどという呼び方は最近はあまりしないようである。  映画は一頃にく らべてすこし持ち直したようで、新聞の広告に映画の宣伝がまた大きく扱 われはじ めた。  新聞に映画の宣伝がまったくのらなくなった時代というのは、かなり長年月 だったのでは ないだろうかと思うほど宣伝にもきづかなくなっていたようだ。  人々が映画にそっぽを向き、スターというのは、お茶 の間のテレビで育つようになってい て、そのお茶の間スターをみるために、映画館 や劇場へ足をはこぶ、というような現象がい ま起っているふうである。  映画スター が現身を劇場で見せるのは、昔は実演といって映像と区別していたようだが、 いまは実演などというと、ヌード・ショウとか、新製品の宣伝販売あたりを指すみたい で、 ことばというのは、同じ単語でも、時代によって含まれる内容というのは変化 する。  仲代達矢と加藤剛といえば、新劇の俳優というよりは映画スターとして有名であ り、こと に加藤は、つい最近までNHKの「平将門」に主演していて、ホットなお 茶の間スターでも ある。  その二大スター顔合せということもあって、シェイクスピアの「ジュリアス・シ ーザー」 (小田島雄志訳、増見利清演出)は大入りであったわけだが、劇場のふん いきは、この人気 スターを見んものと集ったミーハー族という感じで、これは「ベ ルばら」レベルの観客だと 思った。  しかしながら、仲代も加藤も俳優座という、良 心的な新劇の骨のずいからの芸術家たちで あって、ポッと出の映画の二枚目スター でないこと無論である。                    チンダル現象   「ジュリアス・シーザー」のこの舞台は紙数の関係で結論から言うことにするが 、二大ス ターの実演大顔合せと呼ぶにふさわしい、ふざけた出来栄えの舞台であっ た。  演出家は、外国本場仕込みの演出をしたということだが、それは場面の転換の処 理とか、 大道具の扱いとかいう、劇場のメカに関わる面のことで、劇の解釈という ことになると、お よそでたらめもいいところで、ことに加藤のブルータスの心理描 写など、まったくできてい ない。  シーザーを殺すに至る動機というものが、舞台の ブルータスに希薄であり、シーザーにし ても、演出家が、その政治的な姿勢という ものについて全く位置づけていない。  台本に書いてあるセリフを順に追っているだ けの段取り芝居になっている。  加藤は映画の二枚目とはやされるだけあって、さす がに舞台にでると、大根役者である。  シーザーを殺すということを考え始めてから 、三日も眠っていないなどと、セリフではし ゃべるのだが、そういう苦しみを背お ったブルータスという人間なぞ、少しも演じてはいな いのである。  無表情の棒読み ブルータスである。  それにくらべると、仲代は役者が一枚上である。  しかし、私の見た日は、仲代氏 、前夜に大酒でもくらって夜更しをしたのか“調子をやっ ていて”(声のでなくな ることを、役者世界ではそういう)、ろくに声がでないのである。  風邪をひ いて声がでないというのではなく、あれは不摂生でそうなったのであると、ドサ 廻 りの経験のある私は、ほぼ確信をもって言うわけである。まことに不心得なことだ 。  その他の役者、ことにキャシアスなどはミスキャストで、ブルータスの耳から毒 を吹きこ んで事を運ばすには、チンピラすぎるのである。  この章のタイトルはチン ダル現象とつけたが、これは物理の用語で、くらがりに細い光を 通すとほこりが舞 っているのがありありと見えるあの現象を言う。  俳優座のこの舞台では、役者がス タイルよろしくマントをはねあげると、ぱっと大量のほ こりが舞い上って、それが 照明のスポットの光のなかに、チンダル現象で観客から実によく 見えるのである。  コスチュームを開幕前に手入れするのは、舞台にのぞむ役者の必須の義務のように 私など 考えるのだが、いくら仲代が赤いマントをかっこよくさばいてみても、舞台 ゼンソクでも起 こしそうなほこりがまき上っては、裸にした美女の下着が汚れてい るよりも幻滅である。  プロ意識の欠如もいいところで、このチンダル現象ひとつを とりあげても、この芝居は、 二大映画スター大実演会という、学芸会クラスの域 にとどまる芝居である。  大阪の観客をなめているのか、と苦言を呈しておき、釈明 があれば本誌に投書してもらい たいものである。「ベルばら」の方がプロ意識にお いてもレベルが上である。             (昭和52年2月19日所見 大阪労演二月例会 サンケイホール) トップにもどる
           *** ご苦労さん/日本維新派の「風布団」***      もうひとつチンダル現象であるが、日本維新派というアングラの「風布団」                      (松本雄吉 亀山孝治 長野揚一作)である。  布施の場末の映画館を借りきっての公演 である。  アングラというのは何かということになるが「何かなどという定義をはみ だし、定義その ものをかぶらないところにある演劇ふうの活動」とでも言うべきか 。  私はアングラに接したのは数回きりだが、そのトータルな観察から言うとそうな る。  劇場に人を集めて、音かきならし、蛮声はりあげ、骨体ダンスとでも言うか、 美しく見せ ようなどというつもりはさらさらない連中が、走ったりころげたり、た まさかのことばは程 度の低い駄じゃれで、しかも、ながながとくり返しくり返し、  コレデモカコレデモカカモデレコ とやるわけである。  古丸太をずらりとホリゾント から上下手にしばりつけ、それに古着古綿をくくりつけ、古だ たみをしきつらねて その上を走りまわるから、ここではチンダル現象も計算の上であろう。  この計算の上というのが、舞台芸術必須の条件で、俳優座も見習って欲しいもの である。  しかし、実に面白くも新しくも楽しくもないものだ。  前衛芸術的、最先端 の演劇的アングラ感覚から言うと、古臭い、手あかに汚れた発想だと言 っていい。 若い人たちがやってるのだろうが、若さ、必ずしも新しいものを創るとは限らない 。  入口で酒を売り、もうもうたるチンダル現象をながめながらみて下さい、という のは田舎芝 居の発想か。  客席では舞台のレベルに同化した人が、煙草をぷかぷか吹 かしていてアングラでも消防法は 適用されるはずだと思った。  こう書くとけなして ばかりみたいだが、舞台では実に一生懸命にやっていて、そのエネルギ ッシュ・コ レデモカには敬意を表しておきたい。  役者というよりは運動選手的であるが、なか に妙に存在感のある印象に残るキャラクターが 二三人いて、虚のなかに見いだした 人間の魅力とでもいうか、アングラであると否とを問わず、 そういうものを感じさ せることが、淋しい人間であるわれわれの足を劇場へと歩ませる、大き な要因では なかろうかと考えたことであった。                          (昭和52年2月15〜19日 有楽座) トップにもどる


                     *** 良し悪し/劇団青年座の宮本研作「からゆきさん ***  良い演劇とははたしてどんな演劇であるかを言うことは容易でない。  これに反し て悪い演劇はいずれも大体相似たところがある。  それらは鋳型にはめたようなしろ ものである。……この文章の演劇を小説ということばに置 きかえると、アランの文学 論の一節であるが、きょう、たまたま寝ころがって休日を過しなが ら、何気なく手 にした文学論のなかのことばのひとつを、演劇ということばに置きかえて、最 近みた芝居のことを考えていただけで、私はアランの文章は肌に合わない方なのである 。  アランを読んでいると、頭の回転の早いすこぶる口達者な女としゃべっている時 のような疲 れを覚える。  アランと言えばその文学論の日本における評価は高いもの らしいのだが、やたらに章が多く て、一つの章がせいぜい文庫本の二、三ページで 、そのわずかの長さでとりあげた問題を論じ 明快に斫断してしまうように見えるが 、一行一行の文章の発想法をよくみるとかなりその位置 を自在にかえている。  良く 言えばひらめきだが、悪く言えば次の一行を文学的表現が生まれるまでじっと待っ てい たとでも言うか、その待っていた時間の長さみたいなものを行間から感じて息 苦しくなる。  それがアランのエスプリと言うものなのだろうが、わたしは牛若丸に ふりまわされている弁慶 さながらで、アランを読むと頭がわるいという自覚をうな がされると言うことになる。  ある時、さる仏文学者にそんな話をしたら、原文で読 めと、さげすんだ眼つきで言われたこと があって、そのことを想いだすと今でも吐 気を覚える。  その頃にくらべると、いまだに原文こそ読めないが、すこしは生活の 苦労を積み重ねて来たの で、アランも昔よりは抵抗がなくなって来たかとたまに書 物を開いてみるが、同じである。  しかし冒頭に引用した文章のように、わが都合に合せて改悪すると、すこしは頭 がすっきりす るというような作用もまれにはあって、勉強は怠らず、好き嫌いを問 わずやる必要があるのだろ う。  ところで、最近みた数本の芝居のなかで、良い演劇というのをあげるとすれば、 いろいろ不足 も言いたいわけだが、劇団青年座の宮本研作「からゆきさん」(石沢 秀二演出)であろう。  「からゆきさん」は森崎和江の本がよく読まれていたりして 一種のブームの感もあり、現代の 日本人の驕り高ぶったような狂気じみた精神状況 のなかで、からゆきさんのような棄民の哀れな 人間の生きざまを描いた本が売れる というのは、不思議であるとも言えるだろう。  しかし、からゆきさんは決して過去 の遠い出来事ではなく、今朝の朝日新聞にちいさく報じら れていた、トルコ嬢が裁 判に証人として立つという記事などをみても、不幸な人間の生きざまは 、時代と共 に、形態がすこし変ったに過ぎないということは明らかで、悲惨の度合いは、現代 の ほうが増加していると言えなくもない。  塾へ通って、遊ぶ時間も、また空間も与 えられない児童にしても、欠食児童だった私の少年時 とそれは同じではないか。  青年座の舞台からは女たちに悲惨さはさほど感じられない。  それは二十六番館の 経営者もからゆきさん以外の使用人も、作者は人情家の善玉に作りあげす ぎていて 、きれいごとすぎるからである。  もっと彼らはやくざな連中で角栄さん並みのワル であっていい。  彼らを動かしている時代、その時代を動かしている何人か、そのこ とを背景に考えていること は分るが、舞台上の女たちからは、生きることの困難は 感じられない。  女であることの業というようなものも伝わっては来ない。  救いがた いような悲惨さのなかに埋没して行く人間。  そういう人間を平然と見ているのみか 、そういう人間からまだしぼりとるような、酷薄な面を 持った具体的な登場人物が 、そこにはいない。   巻多賀次郎が短刀を腹に向けながら、やめたと投げだすラスト の場面、作者はなぜ死に追いや らないのか判断に苦しむ。  シンガッパのステレツを 追われて、あてどなく流れて行くからゆきさんにも、全てを失った巻 多賀次郎にも 、展望のもてるその続きは無かったのではないだろうか。  棄てられたら棄て返すと いう、そんな強さは日本の底辺の人間は持ち得ないように私は思うが どうだろうか 。  棄てられっ放しではないか。作者のその優しすぎる人間の描き方が、女優たちの せっかくの好 演をもちながら説得力の弱い舞台にしているのは惜しまれる。                          (大阪労演四月例会 サンケイホール)           *** 関西芸術座の泉鏡花作「愛火」***  始めに良し悪しなんてことを書いてしまったから話がやりにくくなったが、悪い ほうの代表を あげるとすると、関西芸術座の泉鏡花作「愛火」(岩田直二台本演出 )であろうか。これは私が 苦手のアランよりもはるかにむずかしい。  アランがむず かしいのは私の教養の不足だが、「愛火」のむずかしさとは舞台にあって、何故 に このような芝居が目の前に存在するかという、原初的なむずかしさである。  芝居そのものは、後半になるといたってわかりやすい。  しかし、世に存在する多くの戯曲 というものは、登山家が目指す山のような存在ではないので ある。そこに山がある から登るというのは分るが、そこに戯曲があるから演るというのは分らな い。泉鏡 花のこの「愛花」は、駄作だとでもいう他ないような戯曲である。  これが戯曲と言 えるかどうかも私は疑いたいくらいである。  新劇が大衆演劇と区別されるゆえんは どこに在るか。  俗に言えば、新劇は一般大衆にとって面白くなく、面白いのが大衆 演劇だとでもするなら、 「愛花」は新劇であること確かだが、大衆演劇を―大衆の 興味をめあてにした多くは卑俗な作品 ―と辞典ふうに定義するなら、「愛花」はそ の部類に入るだろう。  泉鏡花は特異な愛好家をもつ、非一般的な作家で、昨今では 新派の舞台で取りあげられている 程度で、そのレパートリィも限られている。  関西 芸術座で二十周年記念公演として鏡花をやると言うので私はさぞや野心作と期待し ていた が、成果は裏目にでて、鏡花の通俗性にふりまわされるような仕上りになっ てしまい、これは演 出家の鏡花に対する好みから生れた、見事な誤算で、戯曲その ものが、新劇たる骨格をもたなけ れば、演出技術や演技力ではどうにもならないと いう高価な実験劇であったと言わなくてはなら ない。細部については問う必要もな かろうと思う。                      (昭和52年2月25〜26日 郵便貯金ホール) トップにもどる


           *** 新劇的EYE/前進座の「柳橋物語」 ***  細部と言えば、前進座の「柳橋物語」の冒頭にキャリア五十年という、ヒロイン のおじいさん である研ぎ屋が登場する。  この研ぎ屋の刃物の研ぎ方扱い方がまちが っていて、五十年の腕の良い職人どころか、まるで とうしろである。  設定が研ぎ屋 であれば、研いでいるふうであれば良いというものではなかろう。  こういう眼は意 地がわるいと人は思うだろうか。  しかし芝居というものは、そうした細部の正確さ を追求する神経がなければ、村芝居になって しまうのである。  村芝居というのは、 赤城の子守唄のレコードをチンチャカチャカと鳴らしながら、ニキビだら けの顔に 白いおしろいを塗りたくった国定忠治が、竹光をきらめかせて見得を切るあれの類 であ る。  その類の共通性というのは、この「柳橋物語」の舞台にも脈々と流れていて、山 本周五郎の原 作にぺったりとへばりついたような、だらだらした直訳的脚色は無神 経という他ない。  おまけに、ブラウン管なみのBGMがのべつまくなしに流されて いて、その音を聞きながらい っぱし名作のつもりの甘ったるい演技ではやりきれな いのである。  しかしながら、前進座というのは新劇の劇団ではなく、大衆的な劇団 であるから、このような 新劇的アイで視るのは、いささか酷なのかも知れない。  大 衆演劇的アイでみれば、良かった、感動しました、ということになるのだろう。  労 演の毎号の機関誌には、そのような会員の批評文が、いつもずらりとのっていて、 たまには 新劇的アイの批評ものせてみたらどうだと、いささか胸くそがわるいので ある。  そういう批評ばかり得々とのせている労演の神経では、芝居の良し悪しなど の労演の判断力を 会員が疑うことにもなるわけで、スターがやって来る芝居にだけ 会員が急増する、ということに も繋がるのだ。  「柳橋物語」などは、通俗メロドラ マで次元の低い芝居である。  「からゆきさん」にくらぶれば、まあ、スッポンと月 なのだ。劇団側も呼ぶ方もそのくらいの 自意識はしっかりと持っているべきではあ るまいか。                         (大阪労演三月例会 厚生年金中ホール)          *** 劇団潮流のつかこうへい作「出発」ほか***  小品だが、大阪放送劇団の赤毛物・ロベール・トマ作「罠」(岩田直二演出)と 劇団潮流のつ かこうへい作「出発」(小林滝三演出)とをみた。 「罠」については 、とりたてて言うこともないが、この一夜の謎とき話は、自分の細君を殺して おい て、妻に逃げられたと訴えている男の、内面的描写が出来ていないと面白くない。 ネタはいわば始めから割れているわけであるが、肝心の主人公の演技が熱演すぎて 影のない薄っ ぺらな男になってしまっていて、これでは刑事も手のこんだ細工など 必要としないではないかと 思う。  自らのロジックの罠にはまって行くというのが、 題名の意味で、刑事の小細工など題名の罠と いう意味とはすこしちがうと思うのだ が、われらが主人公を演じた役者さんは、そこらを考えち がいしていたのではある まいか。  新劇的アイで視れば、読み捨て探偵小説の一幕というところ。                          (巴瑠古座提携 昭和52年3月31日〜4月3日 パルコホール)  潮流の「出発」は、新劇的アイで視ると大衆演劇であり、逆のアイで見れば、新 劇というより アングラ演劇的である。この芝居は菊池寛の「父帰る」のもじりでも あり、ナンセンス演劇とで も言うべきか、深い意味などは何もないので、観客は楽 しめたらよし、面白くなければ失敗とい うことであろう。  別役実などの芝居にして も、わかりにくい作品だと裸の王様よろしく、自分の教養の深さ加減 を心配する向 きもあるかも知れないが、物欲しげな顔をしてみる必要は少しもなく、芝居を作る 側が、なにか思わせぶりなことを匂わせたり、立派そうな理屈を並べたりするのは ニセモノと思 ってまちがいない。  そのあたりをこの「出発」の演出家は、正確に把 握していたようである。 ドタバタ笑劇を新劇的アイで演出したとでも言うべきか、 小林滝三の演出は一応成功している。  演技は漫画的な動きであって、ダメオヤジとかいうテレビの画面を思いだしたり したが、これ も時代の風というものかも知れない。  劇場が釜が崎に近かった故でも ないだろうが、全体が釜が崎的な舞台で、劇場の外側の音楽店 が流す雑音が気にな ったが、はねかえすような熱演ではあった。  しかし、舞台の印象は、わるくないと は言え、見終って心に残るものがないというのは、わざ わざ劇場に足を運んだにし てはすこし空しいのである。  これは劇をみるというのではなく、役者の芸を見せら れているに過ぎないからであるが、芸と いうにはまだまだ貧しいものだと言わねば ならず、客の笑いがあるとはいえ、これは劇から生じ た笑いではなく、オーバーな くすぐり演技の効果というものに過ぎず、安易な満足感をこの程度 の舞台をつくっ ただけで持ってはなるまいと考える。  演出力、演技力から考えても本格的な作品に がっぷり取り組んで欲しいものだ。                   (第19回公演 昭和52年4月5〜6日 アポロホール)  日本での創作戯曲というものは、劇作家の創作意欲だけでかろうじて書かれているわけで、 小説の脚色にしろ、ほとんどそれを書く労力にすらふさわしい金をかけ ていないということは どの舞台からも感じられる。  演劇などというものは、清貧によって成りたつものではなく、利用しやすい小劇場ひとつ持た ない街に、ろくな文 化が育つはずはないのだ。  経済大国のぼやきたくなる貧しい実態である。



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