
東光寺山から耳成山、二上山の背後へ沈む夕日を望む
東光寺は山の辺の道に点在する古寺のひとつです。
ご本尊は奈良時代かと思われる大日如来です。

東光寺のご本尊 金剛界大日如来
以下の案内文はいまは入手できないガイド本
『磐余・多武峯の道』金本朝一著 綜文館
から東光寺にかかわる部分を引用させていただきました。
見たくない人はクリックしないで!
金 本 朝 一 著・から引用
磐 余 (いわれ)
昭和17年文部省刊行の「神武天皇聖蹟調査報告」には、諸種の資料を検討して「磐余」は『旧十市郡内、旧安倍村大字池之内および旧香久山村大字池尻付近と推定』せられているが、神武天皇を古事記では「神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれひこのみこと)」と呼ばれ、日本書紀にも「神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)」と呼ばれていることから、磐余はもう少し広く橿原付近をも含めてもよいのではないかと考えられる。
明治22年に橿原神宮を設立する際、畝傍山の東南の麓であるタカハタケ(高畠)の付近に「イワレ」という小字名があったことが指摘されたが、その意味では畝傍山の東南地域まで古い「いわれ」の中に含まれていたのかもしれない。
今日、磐余の名を存している所は甚だ少なく、桜井町の南、寺川に架けた橋の一つに「磐余橋」があり、その西北に磐余の町名が残っている。橋を渡った所の小丘を東光寺山または「磐余山」というほか、真菅村の中曽司にある「磐余神社」ぐらいであるが、初めて「磐余邑」と名付けられた地は、今日の安倍山辺りから西方へずうっと広い地域であろうと思われる。「磐余邑顕彰碑」が吉備町の春日神社の北側に建てられてある。
吉野詣記
天文22年(1553)2月23日、京都を出て吉野に向った「吉野詣記」の著者、三条西公条は29日、橘寺から安倍文殊に詣り高田に行っているが途中、曽我川を渡って間もなく「いわれ野」に入ったと、次のように記している。
打渡しゆくゆくとへばそが川のそがひにみえてかすむ板橋程なくいはれ野にいたりぬ。萩などある由きけど、今は道もなきのべなり。思ひ廻らすに、蘇我と書きては、いはれとよめるにやと覚え侍りし。
しるへせむ真萩や何れいはれのの謂れを問はむ古枝だになし云々。
とあり、中世、曽我付近を「いはれ野」といったらしい。曽我の西北1キロばかりのところにある磐余神社も、一応この「いわれ野」の地域にあるといえるようである。すなわち、磐余の中心的部分は安倍付近から香久山の北麓地域でもあろうが、広い意味では更に西に延びて畝傍山麓から曽我にかけての称であってもよい。
地名伝説
神武天皇即位前紀己未年(B.C 662)2月20日の条に、夫れ磐余の地の舊の名は片居。亦は片立と曰ふ。我が皇師の虜を破るに逮りて、大軍集ひて其の地に満めり。因りて改めて號けて磐余とす。
或(あるひと)の曰はく、『天皇往嚴瓮の粮を嘗りたまひて、軍を出して西を征ちたまふ。是の時に、磯城(しき)の八十梟師(やそたける)、彼處に屯聚み居たり。果して天皇と大きに戦ふ。遂に皇師の為に滅さる。故、名けて磐余邑と曰ふ』といふ。
とあってイハミヰたのでイハレという名がついたという地名伝説を述べている。
磐余の地は旧名、片居または片立というとあり、一方は低地で一方は丘陵か山地のような地勢であるから、名勝の地として早くから宮室が営まれたのであろう。すなわち、
神功皇后磐余稚桜宮 第17代履中天皇磐余稚桜宮
第22代清寧天皇磐余甕栗宮 第26代継体天皇磐余玉穂宮
第31代用明天皇磐余池辺雙槻宮 用明天皇磐余池上陵
神武天皇(神日本磐余彦天皇)建国発祥の地としての磐余は、飛鳥より古い文化をはぐくんで来たことを思えば、磯城から飛鳥への過渡的な時代として磐余時代というものも考えられる。
日本書紀
この様に古くから開けた地であるから、正史(書紀)や万葉集にも歌われているのである。
雄略天皇10年(466)10月7日
水間君が献れる養鳥人等を以て、軽村・磐余村、二所に安置らしむ。
水間君は筑紫の豪族で、呉の献った二匹の鵞鳥を飼犬が噛み殺したので、鵠(鵞鳥より大きい白鳥)10匹と養鳥人とを献って罪を許されたという。
用明天皇2年(587)4月2日 磐余の河上に御新嘗す。
大嘗祭に皇居近くの河上で禊をされたものであろう。桜井市の上之宮と高田との間を流れる米川は「いわれ川」とも呼ばれている。
万葉集
つのさはふ磐余も過ぎず泊瀬山何時かも越えむ夜はふけにつつ
この歌碑が、文殊院西古墳の傍にある。
つのさはふ 磐余の道を 朝さらず 行きけむ人の 思いつつ 通ひけまくは ほととぎす 鳴く 五月には 菖蒲草 花橘を 玉に貫き かづらにせむと 九月の しぐれの時は 黄葉を 折りかざさむと 延ふ葛の いや遠永く 万世に 絶えじと思ひて 通ひけむ 君をば明日ゆ 外にかも見む (巻3 〜 423)
石田 王の死んだ時、かつて藤原宮に住んでいて泊瀬の愛人の許に通ったことを偲び悲しんで、山前王(忍壁皇子の子)が作った長歌である。柿本朝臣人麻呂の作かともいう。
東 光 寺 跡 (とうこうじあと)
近鉄・国鉄の桜井駅から南を見ると樹林におおわれた二つの小山が見える。西側(右)が若桜神社のある山で、東側(左)が東光寺山と呼ばれ北東から登り口になっている。この山頂に東光寺という大寺があったという。
東光寺
磯城郡誌には、
東光寺址 大字桜井にあり、寺は石根山薬師寺と称し、又磐余堂と字す。古は仁王堂の東河合の南 にありたりしも、中世郡境改まり其地城上郡に属するに及び、今の処に移転せり。
とあり、東光寺の旧址について述べ、またこの寺を薬師寺と称し山号を「石根山」とあらわしていたことが分る。
しかし、「大和名所図会」には、
東光寺 桜井村にあり、むかしは磐余堂又は桜井寺と號す。天正の頃(1573 〜 91)桜井掃部介延久(のちに了清)といふもの、薬師佛の霊夢を蒙り東方より光明赫々たるによって此寺の名とす。
ともあり、磐余堂または桜井寺などの異名のあることを記しているが、東方より光明を感得したという寺名の由来をも伝えている。
中世末、興福寺衆に襲われた多武峯騒動の頃滅亡したとも、織田信長に攻められ焼き滅ぼされたという伝えもある。かくして徳川時代に当寺の再建が企てられ、本堂2間二面の瓦葺、両側濡縁付後堂が1間庇であり、庫裡は梁行2間、桁行5間、瓦屋根半間両庇となり、鐘楼は9尺四方であると古文書に記されてあるという。
しかし現在では昔の面影を僅かにとどめるものとして、山上近くに弘法大師を祀る大師堂が庫裡と同居してあるばかりである。
ありがたや すがりてのぼる いわれ山 大師の光 みねにかヾやく
いわれ山 ふるきゆかりの あととめて ほとけのすくひ ねがふもろ人 (下の扁額の画像)
「宝生山新四国第7番御詠歌」と掲額に記されてあった。毎年旧3月21日の弘法大師空海の忌日に当り、その影前に供養を捧げ、報恩の誠を表わす法会すなわち「御影供」には、近郷近在の老若男女が参会し甘酒も接待されるという。
さらに、大師堂の北側から山上へ出ると可成り広い畑地に出る。南に長く延びてここに堂舎が建ち並んでいたことは充分にうなずける。北辺に不動明王像を祀る小堂があり、7月28日には不動大護摩が催されているという。

磐余山
江戸末期の延享2年(1745)に書かれた「磐余山東光寺記」というのがある。その山号などからこの東光寺山はむかし磐余山ともいわれ、その頃よまれた「鳥見山八景」の中にも「磐余山晩鐘」としてうたわれていたようである。
しかし異説もあり「大和志料」にもあるが「磯城郡誌」には、
石寸山 石根又は東光寺山の名あり。今専ら桜井の南、谷・河西の間に在る小丘を石寸山と称すと雖、元石寸山は多武峯の西に竝び桜井・安倍ニ町村の間に連互せる一帯の名称なるへし。
とあることから、現在の東光寺山という限定された一小丘を指すのでなく、それから南へ連なっている小丘、すなわち桜井市児童公園・松本山・谷首古墳のある小丘へと続いている広い名称であったのであろうか。
万葉集巻13 〜 3325番の歌に、
つのさはふ 石村の山に 白栲に 懸れる雲は すめらみこかも
とあるように、磐余山は白雲のかかるほどの山であるから東光寺山より一型大きい山であったに相違ない。ともいわれるが、
大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬せるかも(3 〜 235)
の例もあり、あながちそうとは云えないのではなかろうか。多武峯の西には小丘ばかりである。
巻3の歌は柿本人麻呂の作である。巻13の歌は、弓削皇子の死んだ時の人麻呂の作か。(3324の長歌略)