健 康 百 話

山内宥厳







健康百話  その1   さわやかな朝
 仕事をしながら窓の外をながめると、夏がそこまでやってきていて、街路樹の新緑が陽光を浴びて浜辺の貝のようにきらきらと、まぶしく息ずいています。緑風がはなやかな娘のようにやってきて、机の上に広げた書類を持っていってしまう。飛んでいった紙切れを追っかけてひろってきて、苦笑しながら二度と飛びたたないように、文鎮で押えておく。
 いまはオフィスにはエアコンが完備していて、窓を開けることがなくなり、こんな光景が見られなくなりました。むしむししたり、汗をかくことも、寒さにふるえることもなくなって過しいいようですが、人間のからだは人工の環境においそれと順応できなくて、いろんな不調がでてきます。肩こり頭痛・神経痛・生理痛に不順・根気が続かない。など不定愁訴がいっぱい起きてきます。そういう時、便秘をしていないかどうかを考えてみましょう。何日も便秘なのに、そのことに無頓着で、頭痛や肩こりを訴える人がいます。
 便秘は万病の元といえます。朝すこし早く目を覚まして排便をしてから職場に向うことが毎日を気持よく生きる基本となる習慣を身につけましょう。朝起きるとコップ一杯の水を、かみしめるようにゆっくり飲みましょう。次に両手の人差指のつけ根をよくもみほぐしましょう。トイレに入ってからでも結構です。そして、両手の人差指と中指でこめかみをぐっと押します。アラ不思議。気持よく通じがつきます。朝・お腹がすっかり軽くなるほどうんこを出すと、一日明るい笑顔で過ごせることでしょう。なにかいいことでも?と問う人がいるにちがいありません。休み時間に新緑をじっくりと、あるいはぼんやり見つめたりして目の疲れもほぐして、今日一日がんばりましょう。




健康百話  その2   白 い 歯

 自然が乏しくなって、私達のまわりはコンクリートとガラスやプラスチックにとり囲まれ、土を踏むことが、ほとんどなくなってしまいました。コンクリートのなかで1メートル四方ほどの土に植えられ、何のためか毎年無残に枝を払われて、作りもののような形をした街路樹を見て痛ましい思いがするのは私だけでしょうか。
 水も汚れ、合成洗剤の追放を叫んでも川は汚れるばかり。わたしたちは合成洗剤を完全に除去できているかどうか分らない水を飲んでいます。そればかりか、自分の口のなかへ合成洗剤を直接流しこんで、じゃぶじゃぶ、がらがらとやっています。
 そんなバカな!とおっしゃるかも知れませんが、歯磨きのチューブがどこの家庭にもあって、ほとんどの人が毎朝使っていますが、あれには合成洗剤が3%から5%含まれていて、かなり有害です。
 歯みがきは何もつけないでブラシだけで時間を多めにかけて磨くのが正解です。良質の自然塩を使って磨くのも良いでしょう。
 成人の歯は象牙色をしているのが良く、まっ白な歯は合成洗剤と漂白剤のためで、吸収しやすい口のなかでそんなものを使うなどは、もっての他です。
 歯は健康に必要な菌をいつも飼育していて、食べものをよく噛むことで、食物と混ぜ合せ消化の助けをしているのです。食後に磨いた方がよいのはそのためです。
 いつも歯ブラシを1本持って歩いて、昼食後もよく磨きましょう。歯を磨いて、天を仰いでガラガラとうがいを何度もすると、首の運動にもなって疲れがとれます。ついでに左右へゆっくりと頭をまわして、真うしろを見るつもりで動かします。ポキポキ音がするようでは、疲れがたまっている証拠です。
 首に限らず、からだに異常を感じるところには、両手を熱くなるまで摩擦して、じっと掌をそこへ当ててみましょう。10分も手を当てるとスッと軽くなります。手当をするということばはこのことから来ていて、医療の出発点なのです。

                    


健康百話  その3   悠 々 と

 チューリップそっくりの緑色の花が咲く、ゆりの木を知っていますか。
 別名をはんてん木とも言って、五月のさわやかな風のころに花をつけるのですが、この花には蜜蜂が溺れ死にするほどたっぷりと蜜がたくわえられています。
 きわめて成長の速い樹で私の家の横で3年前に植えた1mほどの苗木が、今年は2階のベランダから背くらべしなければならない程大きく育ちました。
 北米原産で、アメリカではイエローポプラという名で親しまれ、秋の黄葉の美しい樹で、大きいのは60mにも育つということです。
 葉の形が日本人の着る半天に似ているところから、はんてん木ともいうのですが巨木になると樹皮がさざ波のように美しくなります。
 悠々とした姿は、見る人の心も広々と押しひろげてくれて、思わず深呼吸をしながら見惚れてしまいます。
 人間も大きな心を持って悠々とした生き方ができると、他人にもいい感化を与えて健康な生活の輪が大きくなります。
 病気がちの人は、心もちいさく、閉され、自信を失って消極的になります。
 上役の前や、人前で話すとき心臓がどきどきするような人や、心臓病を持っている人は、心臓を強化し、自信たっぷりに悠々と、ゆりの木になったつもりで大きく生きるよう心がけましょう。
 左右の掌の中心をよく片方の手でもんでみましょう。
 親指の付根は合谷(ごうこく)というツボで、ここを指で絶えずゆるめてやりますと、心臓が強くなります。
 階段を昇ったりして動悸が激しい時や、心臓の発作で手が冷たい時、掌を根気よく押してやりますと、たちまち治るからふしぎです。
 健康管理はふだんのちょっとした努力のつみ重ねで大事に至らずにすむものです。




健康百話  その4   緑と共に

 大地にしっかりと根を張った樹木は、人間の生命にくらべると何十倍もの年月を生きることができます。
 屋久島の原生林で数千年も生きてきた屋久杉を伐採する計画を知って、反対運動が起きたのは、この間のことですが、地球の砂漠化が大変な勢いで進んでいて毎年、日本列島ほどの面積の緑が失われています。
 チベットの古謡に「人殺さねば食を得ず、寺廻らねば罪消えず、人殺しつつ寺廻る、行くのだ今日も、南無阿弥陀仏(オーマニペメフム)」というのがありますが、人類は自然に対する殺し屋の様相をさらに深めていて、悲しい限りです。
 この報いを誰が受けとることになるか考えるまでもないことでしょう。
 東海道新幹線に乗って西下してくると、大阪に近づくにつれて緑が乏しくなってきます。このイラストを画いてくれている鎌倉在住の「ささめやゆき」さんが始めて、東大阪へ来られた時の第一声が「凄いところですね」でした。狭い道にひしめくブリキの牛の群と、緑の無い灰色の街のことを言っているのです。
 環境にしろ食事にしろ、緑が少なくなることは不健康の始まりなのです。緑は健康の根なのです。緑は食卓にも乏しくなり、おかげで野菜の嫌いな青少年が増加しています。
 多くの人々は栄養価が高ければ良い食事だと考えて偏った食事を摂っています。身長は昔にくらべて伸びましたが、質的に得たものは何もなく、虫歯だらけの子供に育ち、小学生から成人病が多発し、長じては非行、家庭内、学校内暴力を生む原因となっています。
 死亡率第一位にのしあがって来た癌にならないためにも、緑を中心に、季節の旬に即した食生活を樹立する必要があります。
 人間の根はお腹です。根をしっかりさせるため、毎日寝床で、おへそを中心に時計の方向にお腹を百回以上やさしくマッサージしてやりましょう。根まわしです。一生涯の健康法の基本として続けてください。




健康百話  その5   噛む健康法

 今年は天候不順もいいところで梅雨期も終ったはずの頃から始まったようで、全国で多くの方が水害の難に遭って亡くなられました。
 降雨量が予想を大きく上廻ったのが災害の原因などという説をとなえる人もいますが、本来、自然は人間に雨量や風速や地震などについて、何一つ約束を交わしているわけではありません。
 絶対安全な生き方を保証されている生命あるものなど、この世に存在するはずはないのです。
 にもかかわらず、人間は安全を何かに求めてやまないのです。
 自然の猛威から身を守るためには、自然のしくみについてよく知り、自然に逆らわないこと、自然と人間とが、共に一個の自然として溶けあって生きることが大切です。
 山を開発して宅地をどんどんふやせば、どういう結果を迎えることになるか知らないわけではないのに、樹木を伐採し山を崩してそこに平然とくらしているのが現実です。
 健康管理についても同じような多くの間違いをおかしています。
 癌が死亡原因のトップになりましたが、これはからだのなかで自然の制御を失っているからで、文明と科学の名のもとに、自然そのものであるからだを、きわめて人工的な環境に押しこんでいる当然の帰結です。
 健康を維持するために、私達は自然な生き方に近づくよう努力を惜しんではなりません。
 危険な食品、ことにインスタント食品、コーラやジュース類、食品添加物を沢山使った加工食品などは、からだの制御機能を損なう原因になります。
 食品は、家庭で料理する(Cook)もので、選択(Choose)するものではありません。
 そして量を少なく(腹八分目・インドでは腹六分といいます)していつもの五倍は噛みましょう。
 観察していますと、たいていの人は口に入れたものを六回ぐらいしか噛んでいません。
 よく噛むことは、あらゆる健康法にまさります。
 口の機能は食品を送りこむベルトコンベアーではありませんし、胃袋はゴミ袋ではありませんね。




健康百話  その6   無知こそ罪悪

 世の中にはグルマン(食通のこと)と称する人々がいて、美味しいもの談義に花を咲かせたり、書物を著わしたりしますが、美味しいものを追い求めるだけの、口のいやしいのは真のグルマンではありません。
 好きなものを大食らいして、脂ぎって腹がつき出している人を、重役タイプなどと表現する人もいるようですが、食に節度のない、怠けものの、病気の巣みたいな気の毒な人に過ぎないのです。
 食通といえば何といってもブリア・サヴァランの“美味礼賛”という本が必読の書としてあげられますが、サヴァランのこの本は、健康に関する学問の書であり、格調の高い文学の書でもあります。
 この本のなかで、食通とは食に対して節度を心得ていることを条件としてあげていますが、珍らしい食物を沢山得意気にあげつらうのを食通みたいに思っている日本人は反省の必要があります。
 昔、権力争いで殿様を暗殺するのに、栄養の高い食品をしこたま食べさせて、口実をもうけては外へ出ることを許さないようにしていると、運動不足と栄養過多でやがて病気になって死に至った……という話がありますが、現代の日本人は、みんなこの哀れな殿様にそっくりです。
 現代人は多く資産をもち、高栄養なものを多く摂り、背は高く、太ってさえいれば満足していて、やせていると病気ではないのかと心配しますが、たいていの場合これはあべこべです。
 与えることは良いことで奪うことは罪悪だという考え方で、医師も家族もやたらと病人に薬を多く与え、はやく良くなるように栄養のあるものをしっかり食べやと看病して、病気をますますこじらせて、殺してしまったりします。
 病気になってものを食べるのは人間だけで、動物は回復するまで断食します。
 人間も断食が正解ですが、ほとんどは無知のため与えて治そうとして失敗するのです。
 無知こそ、最高の罪悪です。




健康百話  その7   やわらかいこころ

 悲しいことですが、人間には他人の幸福を羨やみ、ねたましく思い、他人の不幸は喜こんでながめる傾向があります。
 火事と喧嘩は大きいほど面白いとか、対岸の火事とか言って、わが身のことでなければ、痛くも痒くもないばかりか、面白がっています。
 生存競争とか弱肉強食ということばは、野性の生物界の輪廻をいい表わしたもので、これは自然の摂理に他ならないのです。
 強い動物が弱い動物を倒して食うことは悪ではありません。
 そのようにして生きる権利を自然が与えているのです。
 人間同士が生存競争したり、そのことを弱肉強食などというのはまちがっています。
 他人を不幸に追いこんで平然としている人間は弱肉強食の摂理に生きているのではなく、罪をおかしているのです。
 人間はとかく同じ方向に進む仲間の足をひっぱりたがります。
 自動車に乗っているとき狭い道で、対向車がこちらの通過を待ってくれていると、どちらも手をあげて礼を交わしますが、このマナーのよいドライバーが、同じ方向に走ると、追い抜かせまいと実に意地わるくなったりします。
 果物やケーキを出された時、大きい方へ手を出したがるのも同じ心理です。
 子供ならいたし方もなくこれを教育してゆくのは大人の仕事の筈ですが、現在の大人が、その資格をもっていないのは困ったことです。
 自己中心に物事をみつめるのは、それ自体が病気です。
 いずれ身体に病気として変調が現われることになります。
 大自然の意志は、絶えず物事を良くしよう、浄化しようという方向に働いていて、それに逆らうと淘汰されるのです。
 人間は手を取りあって生きることが、大自然の意志に叶うことなのです。
 自己中心とは、かたさであり不健康。
 思いやりの心は、健康で抵抗力が強いのです。
 食物もそうですが、なにごとも節度を知って、むさぼらないことが健康な生活です。




健康百話  その8   「田園の幸福」について

 ゆりのき、またの名を=はんてん木=という樹のことを前に書きましたが、アメリカではイエローポプラといって秋になるとそれは見事な黄葉に変わります。
 アメリカ大陸のイエローポプラは、私の友人が取材してきた写真が、二年程前にアサヒグラフに特集されたのをご覧になった方もいらっしゃると思いますが、それは、写真で見ただけでもうっとりするような、美しいながめです。
 ゆりのきは、花言葉が「田園の幸福」です。
 日本人は、昔から、春には桜の花見、秋には紅葉狩りと、自然が織りなす美しいながめを楽しんできましたが、秋の紅葉期は、樹木の一年の営みの実りの姿でもあります。
 街路樹でも紅葉する樹木が沢山あり、銀杏、ナンキンハゼ、楓、などなどあり、ゆりのきも、大阪の街路樹に、数年前から進出してきて、最近なにかと話題の多い三越の前の堺筋には、「田園の幸福」が、ずらりと並んでいて、頼もしい限りです。御堂筋の銀杏も、黄葉が美しかったのですが、十数年前から、都会の黄葉樹は、悲しいかな、黄葉をしないうちに枯葉に変わってしまいます。
 黄葉期には、葉は樹液の糖分などをたっぷり吸ってつややかに黄葉するのですが、近頃は力尽きて、人間で言えば中年を迎えた年代で枯死してしまうのです。
 わが家のゆりのきも、例外ではなく、うっとりする美しい紅葉期を素通りして、枯葉に変わってしまうのです。
 田園の幸福が、田園の悲哀になるような、胸の痛む現象です。
 何かが、自然に、良くない影響を与えていることは確かで、昭和一ケタ生まれの人たちの死亡率がとても高いと言われている現象とダブって、私には、異変の成りゆきが見えてきます。
 注意深く、大地と人間との関係を観察していますと、大地に起きている異変は、いつも人間の生活、健康状態に、そのまま現われていることに気がつきます。
 大地から緑が減少すると、人間は飢えにさらされ、今、その悲惨な姿が、アフリカなどで現実に起きているのですが、日本の都会の樹々が、紅葉期を素通りして、無残に枯れてゆく姿が、我々に、何を教えようとしているのか、本気で考えなくてはなりません。
                        




健康百話  その9   「身土不二(しんどふじ)」について

 お正月には、お屠蘇にお節料理で、冬の季節の根菜類である、ごぼう、れんこん、人参、里芋、くわい、大根などを料理します。
 重箱に重ねて、主婦も炊事から解放され、普段の洋服を、和服に着かえたりして、この料理で正月休みをゆっくりと過ごすのです。
 こうした季節の産物を、旬のものといいますが、四季折々に、私達に恵まれる食物は、気温などに左右され易い、からだのコントロールに役立っています。
 夏にとれる、トマトやきゅうり、西瓜などは、からだを冷やす役割を果たし、冬の産物は、からだを暖める作用をもっています。
 秋にとれる柿は、夏の間の不摂生で疲労をした腸を整え、排便を促してくれます。こういう、巧みにしくまれた、自然の恵みが果たしてくれる役割を、身土不二の原則というのです。
 暑い国の人は、果物や野菜が多く、寒い国の人は、肉類を多く摂る食生活を送っています。
 この原則を無視すると、人間は、健康をやぶられ、病気になります。
 日本人は、今、著しく、この身土不二の原則を無視して暮らしています。
 ビニールハウスで、夏の野菜であるトマトやきゅうりなど、また、輸入の夏の果物が年中食べられます。
 好きな時に好きなものを食べられていいではないかと思うのは、無知な人間の考え方で、そんな考えを持つのは、日本人とアメリカ人くらいのものでしょう。
 こざかしい人間の考え方などは、自然の大きな原則の前ではほとんどナンセンスで、日本が医療大国になって、病人が増えつづけているのは、身土不二の原則の支配によるものです。
 暑い時には暑がるのが良く、寒い時にはふるえるのが良いのです。
 夏も冬も、快適なエアコン付きの暮らしは、ますます、人間の生理を狂わせます。こうした、大きな自然のはからいを無視した上に、食品添加物や、農薬づけの食品を食べつづけているのですから、健康でいられたら、そのほうが不思議なのです。
 いま、十代未満の子供たちは、四十歳で50%の人が死亡すると、政府機関のコンピューターがはじきだしているそうですが、お節料理を食べながら、今年の食と暮らしについて、考えを新たにしてください。




健康百話  その10  器械と梅干

 春になると、真っ先につぼみをふくらませて、風流の先駆けとして、私達の目を楽しませてくれるのが梅です。
 梅はまた良きもの、めでたいものの代表として、松、竹とともにトリオとなって親しまれています。
 果実はいうまでもなく梅干となり、梅酒としても大いに愛用されます。
 梅エキスは、薬として常用すると、実に力強い味方になってくれるものです。
 毎日、梅干を必ず一個食べるということを実行しましょう。
 こんな簡単なことが、容易に続けられないようでは落第です。
 毎日一個の梅干や、小豆粒ほどのエキスが、風邪をひかない躰を作りあげ、便も気持ちよく送りだしてくれて、さわやかな一日を約束してくれます。
 医療大国といわれる日本は、大きな病院が建ち並び、何千万円もする高価な器械が所狭しと威を誇っていますが、あれらの器械は、薬づけにする為に病名を教えてはくれますが、何一つ健康に寄与していないのは確かで、毎日一粒の梅干のほうが、はるかに大きな価値をもっています。
 梅干は、そのことを考えただけで唾液が湧いてきますが、病院は、どんなに高価な器械を設置してあるからといって、心惹かれもしないし、覗く気もしないのは私だけでしょうか。
 とかく栄養価の高いものを、とばかり考えるクセのついた日本人は、梅干のような素朴健康食品を軽視しがちですが、どんな病気になったとしても、やはり、器械より梅干のほうが、はるかに優っていて頼りになることは確かです。
 梅干を大一個、醤油を小さじ一杯の割で用意し、梅干はすりつぶし、醤油を加え、これにショウガの絞り汁を少々加えたものを作っておき、熱い番茶をそそぎ入れて熱いうちに飲みます。
 風邪の初期、疲労回復に抜群です。
 醤油は良質の天然のものを使いましょう。
 普段の一寸した知恵の実行で、医者も器械も梅梅(バイバイ)ですね。




健康百話  その11  副作用について

 何気なしに、一寸疲れるとか、風邪をひいたとかで病院へ行ったら、何だかむずかしい病名を付けられてしこたま薬をくれることがあります。
 日本人は薬好きと言われていますが、服用するのが好きなのではなくて、薬を製造して売るのが好きというのが本当のところです。
 このごろは薬の副作用について多くの人が知っており、病院でもらった薬をきちんと、全部飲んでいるのは、よほど無神経な人だといってもいいくらいです。病院を一種の社交場みたいに利用していて、家ですることのない老人たちが、いろいろ医師に分かりにくいことを訴えては困らし、医師も困った顔をして付き合い、たくさんの薬を手わたす結果になります。
 しかしこの薬は保健制度に売りつけたのであって老人個人にではありません。
 自分で身銭を切らない薬は、どうしても飲もうという気にならないのは人情というものです。老人たちは互いに医者がよいを楽しんでいて、顔なじみの老人が病院に来なくなると、あの人は病気になったのかしら、このごろ来ないわね、などと話し合ってるという笑話があります。薬は病院にとって不可欠かもしれませんが、患者にとってはかならずしも不可欠のものではなく、ときには有害なものといえるでしょう。
 人間の身体には、自然に病気を治してしまうすばらしい働きがあって、これを自然治癒力といいます。
 薬はこの治癒力の手助けができればいいわけですが逆に治癒力の妨げになっている面がより大きいのが実情です。そんなに薬を飲みつづけながら、まだ生命を維持している、というような病人をみると、人間の生命力の強さに逆におどろくほどです。人体は、たくみに造られた大自然そのもので、いつもその働きは浄化に向かっています。
 よほどのことがない限り自然のしくみは、人間の生命を守る方向に働いていて私達はその自然の大きな恵み、はからいを信じて生活を送りたいものです。
 何でもないのに医者にかかって薬に付き合ったばかりに、とり返しのつかないようなことになっては、たまったものではありません。賢明な医師にめぐりあえる前に、まず自分が賢明になりましょう。
                        



健康百話  その12  木の芽時から

 桜の花が咲く季節になると、猫はねずみをとるのを忘れ、春眠暁を覚えずという、けだるい心地よい日々がやってきます。
 健康でぴちぴちしている若人にとっては行楽に心はずむ季節でしょうが、この季節になると、おびえる毎日を送らねばならない不幸な人も大勢います。
 木の芽時といって、植物も成長が盛んになり、若葉がいっせいに芽を吹くのですが、地上の生きとし生けるもの全てに活力が内から湧きあがってくるのです。
 病気もまた、この季節に勢いをつけてくるから、まことにふしぎです。
 若人が気にするにきびや吹き出ものも激しくなります。喘息もちの人にとっても、つらい息苦しさが増してきて、転々と寝られない夜を送ることになりがちです。全国の病院のベット数の三分の一を占めているといわれる精神障害の人々も、この季節はひとしお不安定な毎日になるのです。
 季節の転移が、生命に与える影響はふしぎという他ありません。活力を覚える季節には、身体をよく動かすことが必要です。寒さから解放されたら、筋肉は動きだそうとして、自ら解放を求めているのです。冬のちぢこまった生活ぶりを変えずにいると、病気が勢いを強くするのです。
 慢性病といわれるものは現代の医学の方法で治らないものを指していますが、治らないことが前提となっている医学で治そうと考えるのは、矛盾もいいところです。治らない病気などというのは、本来存在しないのです。治し方を知らないということを治らないと言っているにすぎないのです。
 木の芽時には、木の芽時にふさわしいくらし方があります。現代人はあまりにも怠けものになりすぎたのです。すこし、私と一緒にふしぎな体操を朝夕やってみましょう。
 両足をすこし広げて立ちます。ゆっくり息を整えます。両手を真上にあげます。右手は親指を握り、左手は掌を広げたまま、ゆっくり息を吸いながら踵をあげてゆきます。息を吐きながらゆっくり踵を下ろします。慣れるにしたがって息をより長く、動作をよりゆっくりします。毎日続けていると活力が増してくるからふしぎです。
                        



健康百話  その13  時間(カーラ)について 

 この連載も早や一めぐりして新年度の二年目に入りました。あなたは健康百話で読んだものを何か一つぐらい続けていられて成果をそれなりにあげていられることと思います。健康法によって成果をあげるコツは続けて根気よくやるということにつきるのです。
 病気がちの人のひとつの特徴は、いろいろな健康法や健康食品といわれるものに飢えていて、新しいニュースにすぐとびつくことです。ほんの二、三回やってみてこれは駄目だ、効かないという結論に到達するのも、きわめて早いのがこうした人たちの第二の特徴です。健康法というのは、それ自体にふしぎな力があるのではなく、それを根気よく続けることによって、自らの身体のもっている生命力が強く働くようになるのですから、短期間に病気がパッと治るような健康法などはないといっていいのです。
 あなたは夜具にはクッションにふとんを重ねて、ふわふわした寝床で寝転んでいるのではありませんか。
 ふわっとしたふとんなどは身体が休まらず、背骨が曲った状態ですから、疲れもとれません。私は1cm厚のベニヤ板に毛布一枚をしいて寝ています。こんな寝床に寝るだけで、病気が治ってしまう人も大勢います。痛くてつらいと思ったりするのは、ほんの二、三日でそれを過ぎると、こんなに気持ちの良い寝床は他にないと思うようになります。これは西式健康法の一つですが、下に敷くふとんはせんべいぶとんが良いので、朝になって疲労がとれない人は、ぜひやってみて下さい。病気の人の特徴には、疑いぶかいこともあります。“本当かなあ”となんでも疑ったり、否定したりして信じないのです。病気が治ったり、健康が増進するためには時間が必要です。時間というものを重視する考え方はアーユルヴェーダなどにあって、カーラといいます。何カーラでこの病気は治るというふうに考えます。アーユルヴェーダはインドの医学のことです。
 足のおやゆびをぐるぐるまわして頭をスカットさせましょう。小ゆびをよくまわすと後頭部によく効きます。頭がすっきりしたらもう一度、生活をふりかえってみて下さいね。
                        



健康百話  その14  祈りについて

 ジャンク・フードという言葉をご存じでしょうか。
 がらくた食品という意味ですが、日本の店頭で売られている食品は、半分以上ジャンク・フードです。
 インスタント食品、缶ジュース、コーラの類などはジャンク・フードのチャンピオンです。
 しかし、多くの日本人が一日の食生活の大部分をジャンク・フードですませてしまっています。
 日本中どこへ行っても自動販売器の見られない街はなく、暗い街灯の下や、販売器のわずかな明りの下に井戸端会議のように集まって、なにか話しこんでいる若者をよくみかけます。
 販売器というのは、私は本能的に嫌いでほとんど使用したことがありません。
 不健康のシンボルだと考えています。
 どこへでもポイと捨てられる空缶は街をゴミの山にして、どこの都市も頭を痛めています。
 あなたの家庭では、食前に合掌して「頂きます」という習慣がありますか。
 ジャンク・フードでなく、まごころのこもった手料理を出されると、感謝の心をこめて「頂きます」と抵抗なしにいえますが、ジャンク・フードを出されると、「イタダキマス」と片仮名になりそうですね。
 もちろんジャンク・フードでも「頂きます」と手を合わせる気持を持ちたいものですが、そんな気持を持てない人間をジャンク・フードが作りあげていることはたしかです。
 私は、食前に「オーム、シャンテ、シャンテ、シャンテ、ヒー」とお祈りをしてから頂きます。
 これは、世界の平和をお祈りする印度のことばですが、お祈りをしていると、自分が生かされて存在していることに気付くようになるものです。
 拝むのではなく祈りの心をもちたいのです。
 背筋をしゃんと伸ばして正座します。合掌してかるく目を閉じて、合掌した両手の肘は心臓よりも上にあげて、このお祈りのことばを心のなかで五十回以上となえてみましょう。
 合掌するのはすぐれた健康法なのです。
 手に入れた食べ物を当然の権利のように思って食べるのは病気の原因につながります。
 食前のお祈りをして健康な毎日を送るためのこころをやしないましょう。
                        



健康百話  その15  日本食について  

 アメリカでは、いま日本食ブームだといわれています。ジャンク・フード(がらくた食品)の元祖の国で日本食が流行しているのは、加工食品を中心にしたインスタントな有害食品が長く続いて、その結果がマイナスの形で現われてきたことに気づきつつあるからです。
 アメリカでは、いまごろ肥満しているのは無知な人だということになっていて、すこし意識の高い人々は、日本食、つまり玄米菜食などをして、スリムであることをほこりにしています。
 ところで、アメリカの人々が日本食と言う時には、現在の日本人の主たる食事のことではなく、少なくとも半世紀前の日本人の食事をさしていて、それが身土不二の原則にのっとった菜食中心の食事などです。
 肉食中心、砂糖をふんだんに使った食品、自動販売器で手軽に求められるようなジャンク・フードは、すなわちアメリカ食といってよく、現代の日本人の食生活は何十年か遅れてアメリカを追いかけているのです。
 癌で死亡した人が十七万人を超えたという日本人の生活の底辺には、目新しい食品に何の抵抗もなく平気でとびつく日本人の伝統や食習慣軽視の考え方があります。
 玄米ごはん、お豆腐、味噌汁、漬物、梅干など一汁一菜といわれるような粗末な食事に、いまアメリカの多くの人々が、ほんとうの生命の拠りどころを見い出しているのです。
 追いつめられてしまうまで、何が大切か気づかないし、気づいた時にはすでに手遅れになっているのでは癌の死亡率が高くなるのは当然ですね。
 日本食というのは安全第一の食品でどこにも無理がないのです。
 病院のロビーや公立の学校にまで自動販売器で缶コーラや缶ジュースが売られているような日本ですから、そのうちにほんとうの日本食を学びにアメリカへ行かねばならない時代がくるかも知れません。
 ジャンク・フードや化学調味料をふんだんに使って舌をマヒさせ、うまいうまいと舌つづみをうつようないまの日本人食を追放して、ほんものの日本食、伝統食で健康なくらしを確立したいものです。
                        



健康百話  その16  天  鼓   

 淀める水には毒ありと思え、という古くからの言い伝えがあります。
 私達の生命のもとである淀川という名は、京都の伏見区に賀茂川、桂川、宇治川、木津川の合流点に淀町があり、中世には京都の外港として栄えた町の名から淀川と呼ぶのでしょうが、いまも淀川の流れはゆっくりとしている、淀める水の川という気がしないでもありません。
 人間のこころとからだも、流れているものであって、淀むとたちまち駄目な人間になります。
 こころが淀まないためには絶えず本を読み、思索にふけることが大切です。
 黄山谷という人のことばに「士大夫三日書を読まざれば、理義胸中に交わらず、面貌憎むべく、そのことばには味がない」というのがありますがこころにも食物が絶えず必要なのです。
 からだの食物は勿論のことですが、食べてからだのなかに淀ませず、必要なものを吸収して、さっさと排出する流れがなくては病気になるのです。
 人間のからだは清流に保っておくべきで、淀める下水道にしてはなりません。
 心身医学ということばがいま流行していますが、いまごろになってやっと病気の原因にはバイ菌などの他にこころにも原因があるらしいなどと本気で考え始めるとは、現代医学も幼稚なものです。
 こころとからだの関係について深いことが、はやく解るといいですね。
 からだとこころをコントロールするひとつの健康法を今月はやってみましょう。
 これは、精神的な病気、頭痛、イライラなどによく効果をあらわします。
 効果があらわれると全身がすっきりしますから、全身をコントロールするすぐれた健康法です。
 まず、両手の人差指を中指の上にのせます。
 そして、両方の掌で耳をかたく押えて重ねた指で、頭のうしろを叩くように、はじいてやります。
 頭のなかで、大きな太鼓の音が始まりましたか。
 この太鼓の音を「天鼓」というのですが、二十四回叩いて聞いてみましょう。
 あなたの頭のなかから、天鼓のリズムがすばらしい流れを巻き起こして心身を清浄にしてくれるのです。
 毎日必ず一度は実行して下さい。
                        



健康百話  その17  大きな目

 最近また食品添加物のことがマスコミにとりあげられています。
 食添と略されていますが、日本は世界で最も多種類にわたる食添が認可されています。
 総数三三四品目もありますが、八月末に新たに十一品目を増やす方針が出され、多くの消費者団体などが、これに反対を表明しています。
 食添の目的は保存、着色、着香、甘味料、酸化防止、増量、製造時間の短縮など、さまざまな目的で使用され、わが国の食品の60%以上が食添を使った加工食品という現状なのです。
 これらの食添のなかには発ガン性の危険を指摘されているものもあり、毒性の強いものが多いのです。
 八月八日には、わが楽健寺のパン工房にも東京から松島トモ子さんがスタッフと取材にやってきました。
 楽健寺では、天然酵母パンという食添もパンイーストも使わない安全でおいしいパンを作っているのと、パンには実に一三二品目もの食添が許可されているのでその事情を取材にこられたのです。パンや菓子用の添加物一三二品目を一覧表にして並べてみると、息がつまるほど薬品の名前が並びます。
 松島トモ子さんの大きな目がさらに大きくなって、この一覧表をながめていました。
 びっくり仰天ですね。
 アフタヌーンショーで放映されたのでごらんいただいた方も読者のなかにいらっしゃることでしょう。
 食品というのは、もちろん食添なしで作れるものが多いのですが、ほんものは日持ちがわるく、どうしてもコストが高くつくし、流通のシステムからも、まったく食添なしの食品ばかりでは食生活を維持できなくなってしまうでしょうから、私たちは生命を維持するために、ひとり一年間に四キロもの、生命をちぢめるような食品に含まれた食添をせっせと食べているのですね。なんと悲しい胃袋たちでしょう。
 この十一品目もが一度にまとめて認可されて、さて一年経つと、ガンの死亡率がどの程度増えるのか、因果関係は明確でなくても、食添の増加率とくらべて注目して数字の推移を見守ってみようと思っています。
                        



健康百話  その18  種 ま き 

 八月の末まで十日間ほどネパールへ健康法普及のボランティアに行ってきました。
 今回は、首都のカトマンズからタクシーをやとってポカラという街を経て、おしゃかさまのお生まれになったインド平原の北のどんづまりにあるルンビニへ参拝してきました。二日間、約七〇〇キロの旅でした。
 ヒマラヤ山系を背にインド平原に近づくと、タライ地帯という広大なジャングルのなかを横切りますが、タライのジャングルでは樹木の立ち枯れがひどく目につきました。
 虎や象のたくさんいる亜熱帯のとても暑いところですが、ジャングルの樹を間伐して、用材や燃料にするため、風通しが良くなって、保水ができなくなり、残った樹木も立ち枯れて行くのです。
 カトマンズでは、八日間お寺に泊って楽健法の指導と病気の人たちに食箋を作ってあげたりしました。
 食箋というのは、その病気が快方にむかうための食事の献立を考えてあげることです。
 ネパールのごく普通の人たち約五〇人に接しましたが健康状態がきわめてわるいのにおどろきました。
 日本人なみのまず普通の健康状態のひとは二人しかいませんでした。
 ネパールの人たちは、開国三十余年にして、文明開化の波をもろにかぶり、ジャンク・フードの流入などに加え、健康についての問題意識もまだまだで、これはたいへんなことだ、という実感をもちました。
 毎日五時間楽健法と講話を約二十名の人に特訓しマスターしてもらいました。
 健康についての関心は高く、とても熱心で、今までこうした面での指導者がいなかったことに彼等が気がつき、今後、勉強を重ねて健康法を広めてゆくということを約束してもらいました。
 人間があのタライのジャングルのようになってはたまりませんね。
 健康法については、まず関心を持ち、自分や家族の生活の在り方を再検討して、何かに気がつくことが大切です。
 でなければ、どんな健康法も猫に小判というところです。
                        



健康百話  その19(12)  目 玉 体 操  

 暑い暑いと騒いだ今年の夏も秋の扇となって、もうストーブを欲しがる季節です。
 都会は冷暖房完備のビルやら車のくらしで、自然の寒暖を、もろに肌に感じることがまことに少ないのは、昔にくらべて、ありがたいことだと思っている人も少なくありません。
 健康に関していえば、人工のエアコンの快適さは、マイナス要因だとしか思えません。
 講演を頼まれて、冷房の効いた部屋で三時間ちかく話していますと、今年は右足裏に痛みが走って困りました。むし暑くても、外へでるとほっと生きかえった気持になります。
 暖房はそんな苦痛を与えられることはないのですが冷房から暖房までの期間が、次第に短かくなっていて都会では、夏と冬の二季しかないようにさえ思える昨今です。
 過保護もいいところですね。
 人間のからだが、自然の寒暖に慣らされるのではなく、いまでは人工の寒暖に慣らさなくてはいけないのは不自然です。
 自然のもつバイオリズムを無視していてはからだに故障がおきるのは自然のなりゆきというものですね。
 しかし、ビルからのがれて生活できないのが現代人の宿命でもありましょう。
 そのワクのなかで健康を維持する涙ぐましい努力をしなくてはなりません。
 日本人は近視が多く、メガネとカメラは日本人のシンボルのように外国人がみているそうですが、視力もからだの好不調と深い関係があります。
 目が疲れると不定愁訴があらわれます。
 緑内障、白内障、近視、老眼などを治す目の運動をやってみましょう。
 いっぱい上を見て、素早く下をみます。これを21回、できるだけ右を見て、素早く左へ。これも21回、左まわりに大きく、ぐるぐると21回。次は下から上へ21回、左か右へ21回、右まわりに21回、目玉の運動をします。
 これを一日に三回以上必ずやりましょう。
 私は、ここ一ヵ月余の実験で、右眼の乱視がよくなり、老眼がかなり回復して助かっています。
 泣きごとを並べる前に努力することですね。
                        



健康百話  その20  宿 便 幻 想 

 このところ、宿便という言葉が新聞広告にまで、でかでかと大文字で目につくようになりました。
 人間の腸のなかに生まれる前からの胎便などが排出されないまま、こびりついて、これがさまざまな病気をひきおこす原因となっている。だから宿便さえ出すと病気が治るというので、宿便を出すために、インドの○○草を食べようというような宣伝だとか、断食によって宿便を出そうというわけです。たしかに断食をしていますと、まっ黒な臭いのきつい大便が大量にでてきて、それをきっかけかのように病気が回復することが多いのです。そして、この便をみて、腸のなかに長い間とどまっていた宿便であると考えるのも無理からぬことです。この宿便といわれている便は断食やら、極度の小食を実行している時に腸のなかで形成される大便のことで、普段の食生活とまったく違った食生活を送ると、当然大便の色とか形にも変化が起きるわけです。何十年にもわたって古い大便が排出されずに腸壁にこびりついていると考えるのは間違いなく幻想にしかすぎません。胃腸科の専門病院で腸の手術をしても、死体を解剖しても、腸の中はきれいな粘膜にすぎないのです。
 断食などをして、臭い便が大量にでると病気が快癒するため、これを宿便だと称して宿便をだすということに汲々としている人たちが大勢いますが、断食療法にとって、宿便がでたかどうかなどということはナンセンスで断食そのものが、老廃物を追いだす手段として有効なのだという考えに立たねばなりません。
 宿便というものがあるという幻想をもとに、これを出そうとして必要以上の無理をすることは厳にいましめられるべきです。
 からだに栄養をとり入れるわりには老廃物を出すことに無関心な現代人にとって、宿便幻想はそれなりの効用をはたしているともいえますが、生きものは小さなトゲ一本ささっても、これをたくみに追放するからだのしくみがいつも働いているのです。
 こうしたしくみをホメオスタシス(恒常性保持)といいますが、世に広まった宿便幻想に科学のメスがいま必要な時かもしれません。
                        



健康百話  その21  移ろいやすいもの

 頌春! ―今年も健康でありますように―
 「何ゆえ、私は移ろいやすいのです?おお、ジュピターよ」と美がたずねた。
 「移ろいやすいものだけを美しくしたのだ」と神は答えた。
                          (高橋健二訳)
 というゲーテの詩があります。
 人間は必ずしも詩のなかの美に価しないかも知れませんが、移ろいやすさを敏感に感じる心が美に他ならないのですね。
 万葉の昔から、この移ろいやすいものを非情なものとしてだけではなく、美しいものとして、日本人は詩歌に歌ってきました。
 小学生の頃、お正月になると桐の木の白い鼻緒の高下駄を競ってはいて、えらくなったような気分を抱きながら、凸凹の土の道路を歩いたものですが、いまでは想い出のなかの正月の一コマにしか過ぎません。
 子どもから青年時代にかけては、いつもなにかを待っていて、その時間はなかなかやって来ないものですが、ある年齢から一週間や一ヵ月、あるいは一年もあっという間に過ぎ去ります。
 移ろいやすいものを、からだで感じとる年齢というのがあるのですね。
 時間の経過を、健康のおとろえとして自覚するようになってくるのが移ろいやすいもの、老いの始まりです。
 この移ろいやすい時を、できるだけ長く保たせるのは、健康だと思われるかも知れませんが、健康な人間こそ、時は早く過ぎ去り、病気になると時はながく、時間をもて余すのです。
 お正月の時間をもて余して食べてばかりいませんでしたか。
 食べすぎの整腸に玄米スープを食べてみましょう。
 玄米をカップ一。
 少量のゴマ油でこんがりといためます。
 キツネ色になったら七倍の水を加え、よく火を通します。
 出来上るころ、塩をすこし効かせます。
 やわらかくなった玄米はウラごししてスープと一緒にしてかきまわし、召し上って下さい。
 おいしくて病気でおとろえている人も元気になりますよ。
                        



健康百話  その22  入 浴 圏

 今年は、寒波がことのほか厳しいようです。
 私は、八月につづいて、この正月も二十日間ほどネパールへ行っていました。
 ネパールでは、大きなホテルを除いては、風呂はありません。十二月から二月ぐらいまでネパールもインドも冬です。北インドに接した、おしゃかさまのお生まれになったルンビニというところは、夏はインドでも最も暑いところです。
 カトマンズは標高 一,三三〇mの高地ですから寒くてもルンビニのあたりは常夏ではないだろうかと考えていたのですが、行ってみると、八月には早々に逃げだしたルンビニも朝夕は寒くてふるえるほどでした。
 推理や想像ではものは言えないなと痛感しました。
 私がカトマンズで泊っていたのはお寺ですが、お風呂はなくてシャワーだけです。15lほどのお湯がでてしまうとおしまいです。
 我々、日本人には昼間はあたたかいとはいえ、とてもこのシャワーをあびる気分になどなれません。
 土地の人々はかじかむような寒気のなかで、水道や川の水で沐浴して平然としていますからおどろきです。
 それにくらべると日本人は軟弱もいいところです。
 ネパールへ訪れる多くの外国人のなかで、いつでも最初にくたばるのは日本人です、と現地の旅行社の人が笑いながら話してくれました。
 この旅行中、私は行水を一度しただけでした。
 バンコクのホテルで、たっぷりの湯につかった時はしみじみ日本人として生まれ育ってきたことを実感しました。ところで、世界には入浴圏、沐浴圏、シャワー圏、無浴圏などと、土地や民族によって分類が可能だな、と思いますが、そのうち調べましょう。
 寒い時はなんといっても風呂に限りますが、この風呂も水道の水をはったサラ湯はからだによくないのです。自然塩を一にぎり入れましょう。
 あるいは、庭にイチジクやビワの樹があれば、葉をキザンで木綿袋にたっぷり入れてやります。他にドクダミ、ハコベなどの野草ならなんでも、また、ミカン好きなら皮を、あるいはリンゴの皮でも残しておいて、風呂に用います。
 それらのミックスもまたよろしい、からだに良い薬湯、温泉に早変わりです。
                        



健康百話  その23  空腹感の大切さ 

 科学文明がめざましく発展して、昭和一ケタ生まれや十年代生まれの人間にはとてもついていけないものが増えてきています。
 自覚としては、まだ二十代の感覚がこころもからだも支配しているのに、たとえばマイコンの操作などというものは、四十代の人間には高校生や大学生の人たちにとても太刀打ちできるものではないのです。
 コンピューターなどは、三十を過ぎるともうダメだ、などという声もあります。
 日本で自殺の最も多い世代は昭和一ケタだそうですが、この世代は時代の変かや進歩をながめて通りすぎるには近すぎ、わがものにするにはすでに遠いという狭間の世代なのだと思います。
 テレビは受容だけの一方通行ですが、マイコンははたして能動性(働きかけられる)のものでしょうか。
 私はテレビを見ることのない生活を送っていて、その分能動的に他のことをこなしています。
 手紙を書かずに電話ですましてしまったり、歩けばいいのに車や自転車なしでは駅へも風呂へも行けない日本人は変な人種にちがいありません。
 明治生まれの人間の良さは、自分の手足で何事もこなしながら生きてきた、地についた存在感をもっているからです。
 根っ子が大地、自然につながっているからです。
 テレビとマイコンでコンクリートの部屋のなかで育ついまの子どもたちがどんな世界観をもって育つのか予想もつきませんが、自分の頭でものを考えなくてもすむように育てられていることはたしかです。
 腹をへらすという経験をもった人がめったにいないのがいまの世の中ですが、自分を深くみつめるためには空腹になるのが最良の方法です。
 とかく、からだの不調、病気の原因は食べすぎにあります。
 疲れがとれないひとは、腹もへっていないのに次の食事を摂っているようなひとに多いのです。
 忙しくて食べないのではなく、健康法として朝食を抜いてみてはいかがでしょうか。
 朝食抜きには、いろいろ意見がありますが、やってみるとそのほうが、はるかに健康によいことは自明です。
                        



健康百話  その24  呼 吸 か ら 

 人間というものは多くの矛盾をそのままにして平然としているふしぎな生き物です。
 科学者や哲学者は真理は一つだと昔からいいならわしていて、多くの人がこれを信じていますが、本当にそうでしょうか。
 犯罪について裁かれる時その人が真犯人か否か、などということに関しては、真実、事実は一つしかありませんが、神学や哲学や科学の分野では、唯一の真理などというものは、むしろ少ないのではないかと思います。
 立場によって真理は異ってくるのです。
 真理であるかどうかは、そのひとにとって有効であるかどうか、ということとかかわっています。
 医療や健康法も、万人に有効というのはきわめてまれです。
 程度の問題もあり、やりすぎてはいけないし、足りなくては効果がない、ということもあります。
 食養生についても、玄米食をすすめてあげたら、かえって悪化したとうらまれることもあります。
 しかし、そこであきらめず、もう一押ししたら玄米食が有効であったかも知れませんが断定はできません。
 そいう意味では健康に関しては、先人の知恵から学び、自分で確立する他はないのです。
 しかし、日本人の現状はきわめて自覚に乏しく、病気になったら、医者に責任をもたせる形で解決をはかろうとしています。
 私の一家は放っておいたら治るというのを原則にしていて食生活は無造作に気をつけてくらしています。
 医療の技術よりも、はるかに、からだ自体のはたらきを信じているからです。
 疲れや不調を覚えると、楽健法をやったり、呼吸法で治しています。
 呼吸法だけでも身につけるとどれだけ予防医学に役立つか、はかり知れないものがあります。
 ゆっくり四つ数えて息を吸います。四つ数える間止めます。四つ数えながら吐きます。四つ数える間吸わずに止めます。
 このくり返しです。
 寝床に入ってからでもいいし、正座でもあぐらでもかまいません。背筋をしゃんとのばし背骨で息をしていると思いながらやるのが大事なコツです。
 どこでもいつでもやれますから始めてみて下さい。
                        



健康百話  その25  浄化のムドラー(印契)

 前回の呼吸法をやってみられましたか。
 呼吸法というのは上達するにつれて、間隔を長くしてゆくのです。
 呼吸のことはインドではプラーナといいますが、プラーナはまた生命そのものを意味します。
 ヨーガと呼吸法は一体のもので、さまざまなポーズ(アーサナ)をとりながら息を吐いたり、吸ったり、止めたりしているわけで、からだ全体での呼吸です。
 体操も同じだと思われるかも知れませんが、体操の場合の呼吸は単なる生体の反応としての呼吸がほとんどです。ヨーガは、意識しながら呼吸をするだけでなく、からだのすみずみまで、はっきり自覚しながらやるのが特徴です。
 犬や猫をみていて関心するのは、動作を起こすと、まず、大きく背骨を伸ばすというアーサナをやっています。頭の方から尾の方へ波のように背骨をしならせ、スキッとした顔をして歩いて行くのは人間も見習わねばならぬところです。
 吐く、止息、吸う、止息をゆっくり七つ数えてやれるまで努力をしてみましょう。呼吸法で大事なのは息を吐ききってしまうことです。出しきると新鮮な空気が否応なく、からだ一杯入ってきます。
 今年は、弘法大師の入定一一五〇年で映画までやっています。
 真言密教では、さまざまな拝み方をしますが、坊様が手に印相を結ぶのをごらんになった方も多いと思います。ムドラーといいますが、便秘の方には、ぜひ覚えてもらいたい楽健寺秘伝のムドラーを公開します。
 このムドラーは呼吸法をしたり瞑想をする時、またトイレに座ってからも即効力があって排便が難なくできるというふしぎな印契です。
 まず、合掌します。
 次に手の指先をつけたまま掌をはなし、指と指の間も均等にはなします。
 次に中指と薬指の二本を曲げて、なかに入れます。
 中指と薬指は背中あわせになりましたか。
 さて、中指と薬指の背中のくっついているのを大きくはなします。
 親指、人差指、小指は指先がくっついていますね。
 この三本指をぐっと力を入れて押しあってみましょう。中指と薬指は掌にさわるようもっと曲げます。
 背筋を伸して、これで便秘しらずになりますよ。
                        



健康百話  その26  超 能 力

 世はあげてテクノロジー(科学技術)全盛かのようにみえますが、科学文明が行き詰まってきたことを、科学者の立場から認めざるを得ない時代になってきました。日本の科学者には、まだ数少ないですが、アメリカやヨーロッパでは、宗教、ことに仏教などの東洋思想の中に目先のテクノロジーでは知ることもできない大きな広がり、可能性を見出している科学者がたくさんいます。
 ニューサイエンスといわれてます。
 仏教書ブームとか密教ブームなどといわれるのも、三人に一人は癌で死ぬような時代になって、医学は全く有効性を持っていないことに人々がいやでも気付き始めたからです。
 人間というのは現代医学の概念で考えられている人間よりも、はるかにすばらしい能力をもっています。
 人間は自分が思っている通りのものになることができるので、たとえ暮らしは低くとも、高い思いを持ち続けたいものです。
 善い意志を持って生きる人間には、いつも自分が幸運だという自覚がありますし、悪いサイクルに落ち込むことはありません。
 病気で苦しんでいる人は思いを転換する瞬間に良くなることが多く、私と話している間に顔色が良くなって元気になる人も少なくありません。
 本当かなァ、なんて思っているうちはだめで、こんな文を読んだら、確かにそうだなァ、と感心する感受性と直感力、想像力、やわらかい思考(こころ)力の持主になりたいものです。超能力というのは、人間のこころが身体に対して引き起こす、あたりまえの変化から始まるのです。
 あたりまえと書きましたが、現代人は癌は治らなくてあたりまえ、慢性病も治らないのがあたりまえと思い込んでいます。
 こういうネガティブ(否定的・消極的)なこころを前提にしていて病気が治るはずはありません。
 必ず治る、らくらく治るという可能性を前提として生活を送りたいものです。
 これは、あらゆる仕事にも通じます。
 人間はひとつのことに専門家になれるだけでなく、全てのことに専門家になれる、そういう超能力を誰もが持っているのです。
 まさか、などと思うようなあなたはネガティブなただの人ですよ。
                        



健康百話  その27  原 点

 “衣食足りて礼節を知る”とは古人の言い慣らわしてきた言葉ですが、現代人を観察すると、衣食どころか、ものが氾濫するにつれて、人間は節度を失っていることに気がつきます。
 ものが豊かになると、欲望が充たされて、満足し感謝するのではなく、もっと持っている人を羨望し、奪ってでも手に入れようと努力します。
 一人ひとりの人間がそうであるだけでなく、国家も、権力を握った支配者は、必ず他を支配したい欲望を抱いていて、これをかくそうとはしていません。
 人間というのは、基本的には同じ志向を秘めているようです。
 私たち、平和をほんとうに望んでいるかに見える善良な小市民も、やはり飽くことのない欲望を満足させるために、必要以上にわが身を苦しめています。
 私が始めて、背広をオーダーしたのは三十歳を過ぎてからです。
 二十代には姉のお古の背広の右前の服などを平気で着て暮らしていました。
 なけなしの金を工面して、母が私を喜ばせようと、たまに着るものを買って帰ると、怒ってつっ返したものです。
 生活苦から本当に脱するために、何が必要かを考えてもらいたかったからです。
 私は着るものなど、一つあれば十分なのだと、いまもって考えています。
 とんだ貧乏物語のようですが、貧乏はそこから脱することを私に教えたのではなく、常に自分の心の中で反省することを教えてくれたのでした。
 貧しさが何故、人間に反省することを教えるのか。
 貧しさは、人生をきちんと見ることを、自分の目で見ることを、いわば世の中の仮借のなさを思い知らされずに済まないから、教えられるのでしょう。
 もっとも大切なこと、原点について学ばざるを得ないのです。
 常々、健康とは自分をコントロールできることだと考えていますが、ものを持ちすぎた人間、さらに欲望をもやしていく人間には、人生をコントロールできないのです。
 あり余るものを持って癌に死んでも満足なのでしょうか。
 食べるものがなくて、飢餓のなかで死んでゆく人たちに比べて、本当にそれでも幸福だったといえるのでしょうか。
                        



健康百話  その28  手

 社会が発展するにつれて個人の生活空間が密室化してきて、人間関係が疎遠になり、親子や夫婦の間でも対話が乏しくなります。
 働けど働けど、なお、わが暮らし楽にならざり、じっと手を見る……とは石川啄木の溜息のような詩ですが、現代人は楽な暮らしのなかで、孤独のあまり、じっと手を見るということになるでしょうか。
 手は家族や仕事の仲間、世界の人々と結びあって生きていきたいものですが、核家族化の進んだ現代ではコンクリートの壁のなかで結ぶべきあたたかい手を心のどこかに求めて人々が生活しているように思われます。
 三木清もじっと手をみつめると孤独の感じは一層迫ってくる、というようなことを人生論のなかで書いていたと思いますが、淋しさにやり切れない時、せっぱつまった時には、人間は左右の手を自然に合わせたり、組み合わせたりするものです。
 自分の手のあたたかさを左右の手がおたがいに感じあう時、孤独なこころのなかに、自分のいのちの原点を素直に感じて、ふたたび意欲が湧いてきます。
 手は他人を害するためにではなく、幸福を与えるために働いているというのが本当の役割でしょう。
 手は健康かどうかのシンボルでもあります。
 掌の色や冷感度によって健康状態を知ることができます。
 親指で他人の掌をなぞると、内臓を病んでいる人などは病気の程度を知ることができます。
 病気になると握力が弱くなり、手の指や掌の丘に冷たいという自覚が生じます。逆に手をまんべんなく鍛えてやれば、内臓まで強くなってくるのです。
 両手の指を組み合わせて指の付け根をまさつするように、ゆっくりと前に手首をまわしてみましょう。
 こんどは逆まわしで、手前の方に手首をまわします。
 指の付け根があたたかくなってきます。
 指輪をはずしてやった方がいいでしょう。
 こうした簡単な机の前でできるちいさな運動を決しておろそかにはできません。肩こり、便秘、頭痛、冷え症など、多くの不定愁訴が解消してしまうのです。
                        



健康百話  その29  夏の終わりに

 一握りの玄米を、パンを焼いている私の工房の前の石ころだらけの土の上に、毎日まいています。
 玄米は発芽するか、という実験ではなくて、雀と遊ぶためにです。
 パンを切ったあとのパンくずも一緒にまいています。
 薄いパン皮の小片は蟻が持ち帰ります。
 ああ、ヨットのようだ!というだれかの詩がおもわず浮かんでくるほほえましいながめです。
 雀は五羽から七羽、ひよどりはつがいで、鳩は一羽でやってきます。
 雀はいつもどこかで私が玄米やパンくずを持ちだしてくるのを、交替で見張っているにちがいありません。
 しばらくするとまいおりてきます。
 私が軒下で立っているのを知らずにまいおりてきて、あわてて再上昇するのもいるし、私がいても二メートルくらいまで用心もせず、平然とやってくる悟りを開いた雀もいます。
 私は小鳥たちの姿をみながら、しがらみの中で、自由に動けなかった、そしていまもって開示されていない自分の人生を知らず知らずふり返っているのです。
 一年前に詩展をやったら二十五篇の私の詩を読んでくれたある娘さんは「先生はネクラですね」と感想をいいました。だれが言いだしたことばか、根暗のつもりでしょうが、言い当てられて妙という感じです。
 いま、昭和一ケタの自殺が多いとか。三十年前は十代の自殺がトップだったそうで、つまりは同じ連中が、いま決行しているのだなぁ、などと暗いことを思うのです。
 苦労して生きた人間の値打ちは、その苦労によって人生を正しく見る(開示)目をもち、他人に対する思いやりが、自分をいじめにかかる人間に対してさえ、持てることにあると私は考えています。
 みんなお互いに世界的なスケールのなかでさえも足を引っ張りあいすぎていますね。
“お達者でいてください”世の中でもっとも美しいことばだと空海が言ったそうですが、自分の身の不幸をなげいてばかりいるのではなく、この気持ちを他人に対して心から持っている人、そんな健康な人になりたいものですね。
                        



 健康百話  その30  足 を 練 る

 私が最も気に入っている健康法は楽健法です。
 昔、ある所で学んだ健康法なのですが、誰も広めようとする人がいないので、楽健寺の名前をのっけて楽健法と呼ぶようにして、普及に努めてきたわけです。
 ありがたいことに、友人の経営する出版社が立派な本にまでしてくれて、一気に全国に広まりました。
 その本のイラストレーションを描いてくださったのが、この健康百話のイラストを描いてくれている、ささめやゆき先生です。
 健康法とは、らくらくと健康をものにできる、という意味と、やって実に楽しく健やかであるということですが、人間同志がお互いに足でからだを踏みあうことから、単にからだだけでなく、心が通いあうのが、何よりも嬉しいのです。
 病は気からと昔からいわれますが、他人とこころが通じあわないとき、心にわだかまりや怨恨が生じて病気になることがほとんどなのです。医学でいう病因たるバイキンなどは心のおとろえた人間に対して猛威をふるうわけです。
 病人の生活の根元をたどってゆくとそこに必ずつき当たります。つまり、愛を求める心の現われが病気といってもいいのです。
 そういう意味で病気は逆に、人間にとって救いであるともいえます。
 楽健法では、足のつけ根と腕のつけ根をふたりでよく踏み合うのです。
 人間のからだは手足のつけ根の筋肉の疲労から、ここが固くなり、血液や体液の流れが不調になってくるのです。手足のつけ根を根気よく足でゆっくり踏み、練るようにほぐしてもらうことほど気持ちのよいものはありません。
 そして、踏んであげている人は、足をくり返し練るように運動させるため、足がほかほかとあたたまってきて、施すことにより自分が健康を得られるのです。
 青竹踏みでは、竹はお礼も言いませんが、人間同志ではお互いに感謝の心をもてるわけです。
 よく練れた人といいますが、足をみると人間としての器の大きさが分かるほどです。
 疲れたあなたの友人やつれあいの手足のつけ根をかるく踏んであげて、足を練り、人間を練りましょう。
                        



健康百話  その31  SF健康法

 世に健康法というのは数えきれないほど沢山あります。健康法というのは、無病長生の法にちがいありませんが、健康法の大家などというのが百歳をこえて生きている例はまず聞いたことがありません。
 昔は人生五十年といいましたが、この人生五十年という考え方は昔の中国人の人生観だと思われます。
 老後が非生産的な人生。
 青少年も学習中で非生産的な人生だとすると、人生は三十年ほどの期間を世につくすことができるということになります。
 平均寿命が八十歳余に伸びても、健康法の大家や医師がこれをこえられるかどうか怪しいものです。
 人生の質という面から考えると人生五十年、決して短かくない人もいれば、ただ長く生きているだけ、という人生も考えられます。
 昔から一生の食扶持は決まっているといわれますが、男性の寿命が女性より短いのは、女性より大食からで、ラットで実験しても、好きなだけ食べさせると、オスは二年、メスは四年の寿命。オスにメスと同じ食糧を与えると、四年生きるということです。
 健康と長生きには、自己をコントロールすることができるかどうか、ということがなによりの条件だといえます。
 そのためには、自己の健康度に対する自覚が必要ですが、現代人に最も欠けているのが、己を知るという、つまり、自覚です。
 自分を相対化できない人には、健康法はSFにしか過ぎません。
 しかし、こと健康に限ってだけ自己を相対化できるというのも困ったことで、相対化は人生全般に対して行われることが、健康な心身の獲得であるといえるでしょう。狭く、小さくまとまって生きるという生活にはまらないように、胸はってどんと人生にぶつかりたいものです。
 額に太陽を受けているつもりで暮らす人には、老後などというものはなく、生涯生産的な人生が送れるのです。
 かつがれたかなと思う時は、眉につばをつけたり、頬をつねったりしますが、眉の筋肉をつまんでぱっと放してみましょう。
 目のまわり、顔の筋肉をつまんで放すのは、視力の回復、しわの消去に役立つSF(SPECIALFACE)健康法です。
                        



健康百話  その32  明 暗

 最近の世相はことのほか暗いとか、近頃の若い者はといって嘆くのは年の故でしょうか。
 古代のギリシャの哲学者ですら、昔に比べると世の中が悪くなったと人心の荒廃を嘆いたりしています。
 昔にくらべるというのは自分が若かりし頃にくらべてという意味です。
 四十九歳まで生きた夏目漱石も世相の暗くなってきたことをどこかに記述していますが、わずかの生涯の時間の間に、世の中はそんなに暗く暗くと歩みつづけているのでしょうか。
 昔はほんとうに良かったのでしょうか、という疑問を持って反問するのは若人の権利かも知れません。
 そんな暗いと嘆く世相を営々と積み上げてきたのは、暗さと嘆く当の大人たちだからです。
 和歌山県のある町で、出納係の人が二十九億円もの金を使いこんだことが話題になっていますがピーナツどころの比ではありませんね。同じ和歌山で、天神崎保全市民協議会が自然を保護する運動を展開していて、全国の志ある人々から目標二億円の浄財を募ってがんばっています。昭和51年から58年までに集った金額が九千六百五十二万円余です。
 この浄財で乱開発される予定だった土地を買い上げて子孫に美しい自然を残そうというのです。
 和歌山県からの補助金二五〇〇万円、田辺市から五〇〇万円ということです。
 ごく最近送っていただいた資料をながめながら、人間の営みの種々相に考えこみます。
 この運動は明るいニュースでしょうか、暗いのでしょうか。
 このような自然保護や健康なくらしを守るための仕事は本来、誰の役目でしょうかね。
 もう年末です。今年は怪人二十一面相にふりまわされましたが、来年から現実を暗く感じる精神状況から抜け出して、未来に光を感じるようになりたいものですね。
 未来に手を触れてみて、からだをすっきりさせましょう。直立し、ゆっくり呼吸します。
 心が落ちついたら、掌を上に向けて高くあげます。
 手の甲をじっとみつめます。手に神経を集中します。
 右足からゆっくり、大きく足踏みを始めます。
 足踏みを十四回やって終わります。若返って、ぐちを言わなくなりますよ。
                        



健康百話  その33  牛

 今年のエトは牛ですが、子どものころ、ごはんを食べたあとすぐ横になると牛になる、と親から叱られたものです。
 角がはえるという地方もあるようですが、行儀をしつけるためにいわれたタブーです。
 広島では牛は坊主の生まれ変わりなどというそうで、坊さんというのは食っては寝ていたのでしょうか。
 牛が人間に生まれ変わるというのは枚方などにもあり、各地でいわれているようです。牛が坊主の生まれ変わりという諺は牛が肉食しないからだそうです。
 現代の日本の坊さんで牛のように年中精進している人は少ないでしょうね。
 インドでは、ことに牛が大切にされていますが、輪廻転生を信ずるインドの人々の思想と深い関係があるでしょう。
 インドでは牛の糞は乾かして燃料にしますし、牛から摂った牛乳を牛糞の燃料で沸かして料理する図などは、何か愉快に感じますね。
 生駒山上の暗峠の農家で牛小屋を見せてもらったことがありますが、そこの牛たちは子牛の時からつながれたままで、外に出したことがない、というのを聞かされてショックを受けたことがあります。
 考えてみると、ニワトリもケージ(かご)飼いされているのは、ふり向くこともできない狭い空間で一生を送るわけですから、二十世紀の文明社会での家畜たちは気の毒です。
 乳を出すマシン、卵を生むマシンとして扱われているわけです。
 私たちだってウサギ小屋に住んでいると外国人から評されるのですから五十歩百歩ですね。
 日本人の住居を見て、あまりの狭さにショックを受ける外国人もいることでしょう。
 私は昔、喘息を患った故か、狭い空間が嫌いです。
 こじんまりとまとまるということには何事によらず嫌悪を感じるのです。
 閉じこめられたり、つながれたりしている全ての生き物を解き放ちたい、そんな願望をつよく心のなかに秘めています。
 一九九九年には、この世の終末が来るとか、とかく世紀末的思想がはびこりがちですが、健康なからだを維持し、自分の存在がまわりの人々に光明を与えるような明るい心をもって、牛の歩みのようにゆうゆうと生きたいものですね。
                        



健康百話  その34〔最終回〕  青 い 鳥

 健康を志向するのは、幸福でありたいという、人間だれしもが持つ願望のあらわれですが、はたして幸福の青い鳥はあなたの掌にのっかってくれるでしょうか。
 宮沢賢治は、この世にひとりでも不幸な人間がいる限り自分は幸福とは言えないと考えていたそうです。
 私は、この正月にこんな詩を書きました。

  坩  堝

 高圧釜のなかの、玄米一粒のように、人間も 坩堝に身をゆだねているだけのことだが、
 淀んだ心に、ちいさな灯を点滅させるため くり返される正月。

 何かに耐えて生きてきた 人の世の流れ工合をふり返ってみる、エアポケット。

 だがあそこには正月はやって来ない。

 陽はじりじりと全てを焼き、満目砂漠と化した大地に、折れ釘のような人間の群れ。

 ランドサットの目も、あり余る物を持て余している国の、
 余りものの慈善も そこには届くことはない。

 雲も湧かず、陽はさんさんと根元から焼きつくしている。

 飢餓の民が、もう欲しがることもやめた手をのばす時、
 あの大きい空ろな目は見るだろう。
 巨大都市の窓ガラスを破って、吹きすさぶ風にのった彼等の砂が、
 ビルの空間を埋めていくさまを。

 アフリカの飢餓の民のニュースが、贅沢なくらしを楽しむ日本人の心を、どれほどゆさぶったか分りませんが、日本人のくらしは、きわめて不健康です。
 この豊かさの裏側で、何かが、日本人を「根元から焼きつくそう」としているように思われてなりません。
 この浮足だったくらしを足が地についた堅実なものへと転換しなければ、明日はわが身かも知れないのです。
 健康とは病気しないというていの次元のものではないことを肝に銘じたいものです。
 永らくご愛読ありがとうございました。
                                     合掌




index