(インド・ラダック地方)

初版本/ムーンランドへの旅表紙

 からだが熱っぽく、だるく、頭がぼんやりしている。道中がいやに長い。遠すぎる。もう山も見飽きた。みんなぐったりと居眠っている。バスはゆっくりとしか進まない。それにしても運転手のタフなことよ。ろくに休みもしないで、正確に同じペースで走っている。一日の給金が十五ルピーと言っていた。約四五○円だ。細君と子供がふたり。高校生と中学生。家賃が六五ルピーだという。四二才。俺と同じ年令である。シーク教徒。酒も煙草も一切やらない。

 もの静かなことこの上ない。彼の動作を見ていると、生きることに一つのペースを確実につかんでいる事が感じられる。人生がどういうものだか知ってしまっているみたいだ。俺などよりはるかに大人なんだなあと思う。この俺は一体どうなってんだ。なに一つ確かにつかんでいるものなどない。行き当りばったりに、何かをやって生きてる。生きて来たというだけ。積み重ねて来たものなど一つもない。あるとすれば、今日までの歳月だけだろう。

 いまだに生まれたままの姿に等しい。たとえばファッ・ラーという峠で、ぼろをまとって、やせこけて洗ったことのない汚れた手に小さな化石をのせて、買ってくれとおずおずさし出した少年の手は、俺の手だ。背中に背おったカゴに、ヤクの糞を一杯つめ込んで、観光客などにも眼もくれず歩いていたあの少年は、俺自身だ。奴は学校へ行ってるだろうか。俺のように不就学児童で、その故で俺の顔を見てもにこりともしないのかも知れない。いやなものなんだ…同じような貧しい境遇の仲間を見るのは。

 

 俺は夢を見ていた。夢のなかで、また夢をみている。誰かに笑われている夢だ。俺のことを、痛烈に笑っている。その笑う声はバスの窓から聞えている。俺は自分の、あのボロのカローラに乗って高速道路を運転している。車が渋滞しているのだ。俺の車の右側に観光バスが停った。遠足に行く途中だろう。小学生が多勢のっている。そのうちの一人が、俺の剃ったばかりの頭を見つけて、猛烈に笑いだした。するとどうだバスの窓という窓に子供が顔を出して、大爆笑である。その笑い声の、なんとあざけりの毒だらけの声であることか。

 俺は無視する。しかし、奴らは俺の剃りたての光る頭を、無視するわけにはゆかないのだ。バスの方が前へと進む。しかし奴らは後をふり返って、まだ刺すように笑っている。

 そして俺は、もう一つの笑い声を想い出している。俺が得度式を終えて大阪へ帰って来た。        得度式の写真を、友人の写真家のYが撮ってくれた。そのなかに、得度式の前の夜、散髪屋を呼んで頭を剃り、式の日に剃るために、頭の左右と中央に、一つまみの髪の毛をそり残してある写真がある。それを、俺の工場で働いていたFという中年の男がみて、吹きだした。彼は腹をかかえて笑った。それは、聞いている俺が、生きているのが恥かしくなるような、痛烈な笑いだった。

 

 私は誰かの笑い声で目を覚ました。バスはもうレーに近いのだろうか。そういえばさっき、あそこがレーです、とガイドが言ってた。はるか前方にちいさく一つまみの緑と家屋らしいものが見えた。あと三十キロほどです、という。

 遠いな!と私はつぶやき、目を閉じた。バスは実にのろい。

 最後のチエックポイントだ。レーの街へ入る前の最後の休憩です、とガイドが言った。そこは軍用の水の補給所で、道路の傍に、清流が音をたてていた。それにしても、なんという頭の重さ。変な夢の故だろうか。のろのろとバスから降り、私は発つ前に剃ったばかりの頭を、股ぐら覗きの姿勢で、その清流のなかへ思い切りつっこんだ。頭のなかが音をたてている。私のその姿勢をみて、声をたてて笑っているチベット人がいる。印度の兵隊がいる。しかしその笑い声には刺はない。私の仲間たちも、次々と清流に頭をつっこんだ。

 いよいよ目指すレーの街である。

 私には、旅をして来たラダックについて、いろいろな見聞を書きつらねるつもりはない。そういう旅行記は、それにふさわしい書き手がいるだろう。また、たとえば河口慧海のチベット旅行記を精読すれば、それはそのまま、私の見て来たラダックである。そういうことも言えるだろう。この旅行記は明治三十年代の事であるが、ラダックのチベット人の暮しは、慧海の書いている文章を思いだして、なるほど、と思うことばかりである。私はわずか二週間の旅の、三日ばかりいた土地で、実に多くのものを見聞したように思ったが、慧海師のチベット旅行記がなければ、その半分も感じとることはできなかったろうと思う。

 だが慧海師の見て来たチベットは、今はない。この百年ほどの間に地球は多くのものを失ったが、チベットも、この世から無くなったもののひとつである。それは変ったなどというものではなく、失ったというべきものだと私は思う。

 そしてチベットには、まったく新しい暮しが、人民服に着替えた人たちによって、営まれているのだろう。もはや、チベット人が何百年にもわたって作りあげて来た、特有の、個有の人間のくらし、文化は、そこには無い。

 我々はいま、チベットをこの目で見ようと思えば、ネパールの奥地とか、このラダックへ行く他はないのである。

 国境というようなおろかしいものがなかった昔は、ラダックはチベット人の生活圏なのである。そこでは、ヒマラヤ山脈の、四千米から六千米もの高原で、何百年もの間に形づくられたチベット特有の暮しが、そのまま存在している歴史的遺産のような地域である。

 ラダックへの尽きない興味は、昔から入国することを拒みつづけ、現在では中国領となって、昔より更に入ることが困難に思われる、チベットへの興味なのである。それも主としてラマ教という、チベット人が作りあげた独特な仏教に対する興味である。

 河口慧海は、このラマ教の蔵している経典の入手と研究のために、チベットへ入った。日本にある多くの経典は、中国人が印度から持ち帰った経典の漢訳がほとんどだが、同じ経典でも、その訳者によって、内容が大きく異る。その原典は印度であるが、仏教の滅んだ印度では、もはや入手することはかなわない。

 そこでチベットの経典が、重要なものとなる。言語的には、チベット語の文字は、印度系文字で作られていて、チベット語に訳された経典に近いものだから、最も原典に忠実な経典をチベットで入手することができるからである。そのために慧海師は、現代人には想像もできないような、苦しい修行をしながら、チベットへ入り、その目的を遂げたのである。

 この河口慧海のような旅行こそ、旅と呼ぶに値するだろう。その精神力は、信仰に基づいていて、旅行記の面白さということもさることながら、仏を敬い信じること、仏教徒としての正しい生き方というものは、現代の日本人の僧侶が、深く学ばねばならないところである。さもなくば、日本の仏教も、いづれ、チベットやカンボジァや、ベトナムの仏教のような運命を辿ることは必定である。

 河口慧海はチベットを旅する間、きびしく戒律を守った。取分け、食事を一日二度として、午後になると、一切、ものは食べなかった。

 この食事こそが、彼の困難な旅を成功させた大きな原因であると私は思う。

 なぜこんなことを書くかと言えば、私はこのラダックへの旅の間、人間と食事との関係について、ずっと考えつづけたからである。

 食事は私たちに日々与えられ、手当り次第に口に入れていると言ってもよいが、それは我々日本人や、ヨーロッパやアメリカなど、豊かな先進諸国でのことで、印度や、アフリカや、中近東、アジアには、思うように日々、食事にありつけない人間が沢山いる。

 そういう恵まれた人間と恵まれない人間との他に、自分の意思で、粗末な食事しかしない人間というのもある。

 印度では、その信ずる宗教によって、食べるものも決定される。それはヒンズー教やイスラム教、シーク教など、今回の旅行でも幾種類もの宗教の異る印度人に接したが、彼等の食事は、宗教的理由から決定されていて、今は旅行中だから、肉でも食ってやろうかというようなことは決してない。

 食事こそ、その人間がどういう人間であるかを決定する、最大の要因である。

 ガンジーの伝記を読んでも、学生の頃、親に秘密で肉を食って、そのことを苦しんだあまり、父親に告白して以後、生涯、肉を口にしなかったそうだが、食事を、自分の意思のもとに置くことは、自らを知り、自在に生きる唯一の方法なのである。

 食べるものの種類によって、人間は、神にも悪魔にも近づくことができるのである。そういうことを知っているからこそ、印度では、正しく生きるために正しく定められた食事をとるのである。日本でも、仏教では精進料理を作り、肉食などは一切しなかった。それは印度から伝わって来た、すぐれた知恵であったが、現代の科学知識は、食事に関する、そうした人間の秘密を、全てナンセンスなものとしたのである。

 現代の印度人の多くは、日本人とくらべると、食事に関してはきびしく自戒している。現代の科学知識、医学、栄養学などは、そこでは通用しない。タブーは決して冒すことはしないのである。タブーを冒すものは、やがて、自分の食べたものから報復をうけとることになるからである。報復とは何か。その答を、現代の日本人は、身をもって世界に示そうと、いま鋭意努力中なのだと言う他ないだろう。

 私はその朝、五時過ぎに、ニューデリーのニームやプラタナスの大木の街路樹の下を散歩していた。緑は豊かで、足元の芝草は、しっとりと露を含み、サンダルばきの私の足元はぐっしょりと濡れる。道路は広く、人の姿はまばらで、時折、自転車にのった人が、もの珍しげに私をながめて通る。歩道の樹の下では、床几に毛布を敷いたりして、ほりの深い印度人が夜中の夢である。暑さをさけてこのように道路上で夜を過すのだろうか。あちらこちらで、高いびきである。アンバサダーという、印度製のタクシーが沢山駐車していて、多分、その運転手たちのようである。

 なかには車を水洗している早起きの働き者も少しはいる。活動しているのは、小鳥たちだ。そこかしこ、私の歩くすぐ足元に雀や烏や、名前の知らない鳥が沢山歩いている。

 小鳥たちは、私が歩いていても、日本の雀たちのように、姿をみると逃げるのではない。すぐ傍へ近寄ると、人間に踏まれないように、ひょいと身をかわすだけである。なんたる平和な共存よ。そうした風景は、日本での小鳥たちと人間との関係からは、想像もできないことで、この因果関係ひとつとりあげも、日本人とはどんな生き物かが、分るような気がする。

 そういう鳥たちのなかに、一きわ疳高く鳴き続けているのがいた。どこかの樹の枝で鳴いているのだが、私には聞いたこともない激しい強い鳴声で、連続して途絶えることなく鳴き続けているのである。    あちらこちらと、葉の茂る枝を鳴声をたよりに探してみると、いた!全身を震わせ、しっぽをぴんと伸している。何とシマリスではないか。小さなシマリス。手を伸せばとどきそうな近くで、彼は馬鹿みたいに一心に一心に鳴いている。

 その枝の下では、リスの鳴声を夢のなかで聞きながら、すらりと細い印度人が、すやすやと眠っている。彼は毎日、どんなものを食べ、どんな夢をみて眠るのだろう。おそらく、夢など見ないのではないだろうか。私はその時、人種の違いではなく、人間としての違い、差というものを、印度人と日本人とを比べて感じていた。

 日本では動物と人間とでは、その基本的権利が、あきらかに人間に優位である、そして罪のない自然そのものである動物が、得難い一度きりの生を享けて、いまここに存在しているなどとは思わないのである。そういう社会で、人間だけが、共に大切にしあうということもないだろう。

 日本人の多くは、他人を、動物を眺めるのと、さして違わない目でじろりと見ることになるのだ。己のことしか考えない、エゴな人間たち。否、非人間たち。だからこそ、企業はたれ流しで人を苦しめ、公害裁判では、白をきり、総理大臣は私腹をこやすために汲々としたあげく獄につながれるというような、浅ましいことになるのである。

 そんなことを、ニューデリーの街を散歩しながら私は考えていた。とても腹立たしい、淋しい気持だ。 そのことも、日本人の食事ということと、大いに関係がある筈だ。なぜなら、でたらめなことをしている人間の食事は、大抵でたらめなものだからである。でたらめとは、自己規制を持たないことである。

 日本では仏教徒は僧俗を問わず、自己規制を全く失っている。僧侶が肉食妻帯をしはじめた時から、仏教は偽者に転落してしまったのだ。そういう意味では、印度の民衆のどの一人でも、日本の僧侶よりは、きびしいものを内に秘めていると、私は思うのである。人間のとめどない堕落は、文明の発展、科学思想の発展に比例している。科学は人間から、道を求めることを、無意味なものだと感じさせ、人間の心に、非情なものを育くんでいるようだ。

 現代の文明の発展は、そのまま破滅への道程であることはたしかだ。印度はその貧しさの故に、科学文明の恩恵に浴する部分が大いに遅れているが、そのことは、逆に幸福なことなのである。大企業のみならず、一般家庭にも碌でもない薬品が、いろいろな形でまぎれこみ、あるいは農作物が、恐るべき毒害を含んでいるという心配は、少いのである。

 公害の恐しさ、その恐ろしい真の姿は、近い将来、決定的な形で現われることだろう。このわれわれの日本に。そして人々は、もう取り返しがつかないことを知る日がきっと来る。その日を迎えるために、日本人の殆んどの家庭が、でたらめな食事に精を出しているのである。人類は文明を発展させ、科学的知識を増すにつれて、傲慢で、おろかになって行ってるのだ。習慣も伝統も無視して、人々は現代の文明生活に浴そうとする。その世界的チャンピオンが他ならぬ日本人である。

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