山内宥厳自演の岡山公演のパンッフレットから

  1993年11月1920 オリエント美術館講堂原国家具ロフト にて公演した   ひとり芝居・がらんどうは歌う/資料編     
  充実した生き方をしたいとのぞむことは 芸術にたずさわろうとする者にとっては 熱病の一種なのである しかしながら創造するということは 醒めた眼を持たずしてはあり得ない このきびしいジレンマなくしては すぐれた作品は生まれないのである。 このドラマは そうしたカオスの状態を 定着しようとした試みである。 終ったあたりから始まる   もし充実を望むなら もう一度始めねばならない。 これはそうした人間の原点を見つめようとした 少年のひとみの捉えた ひとつの風景なのだ。   


 

目 次

「がらんどう」は歌われ続ける・・・・・ 中島 陸郎

 演出所感 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 平原 芳夫

山内宥厳先生との出合い ・・・・・・・・・・ 岡嶋 美恵

「がらんどう」の作者のこと・・・・・・・ 国分 重男

「がらんどうは歌う」を観て・・・・・・・・・・・上林猷夫

劇団に名前がついた由来・・・・・・・・・・・ 松下 隆洪

「阿修羅」一年をへて・・・・・・・・・・・・・ 山内 博之

ある旗揚げ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 山内 博之

 


 

[がらんどう]は歌われ続ける

 

中 島 陸 郎

 初演は、カニバリズム の 独 白 劇「審判」の最長連続公演で名を挙げた俳優・ 浜崎満が演じた。東京をはじめ何か所かも巡った。七十年代後半のころだ。当時、 私はある演劇雑誌に感想文を寄せたが、ここに細かく引用することは観賞の妨げに なるので、しない。 ただ、この作品は、―普通のドラマの型に嵌っていないと言うことだけでなく、 手を施さねば曖昧なまま止どまることのない<時間>、あるいは<人生>といって もいい切り取った切り口と、虚と実スレスレに誘い込みながら語るべき対象のはっ きりしたモノローグに傾むくことで、人間存在の深部に至る<詩劇>というものの 特権をかち得ていると言っていいだろう。 詩人自身によって朗読される詩ほど味わい深いものはないとは、昔から言われて きた。 十数年ぶりに作者から送られてきた台本を、仕事に出かける電車の中で私は 繙いた。途中、熱いもののこみ上げてくる個所があり、慌てて、閉じた。 <飢え>は深まっているのかも知れない。

                            (劇作家・演劇プロデューサー

 


 

演 出 所 感

 

平 原 芳 夫

 

車のない過去を引きづりながら、 車体のない未来に乗りこもうと、 切符を買ふ現在の私たち。 切符が通用する、 しないは別として、 買ふといふ行為が   生きてゐる證しであり、 ドラマとはそのやうな不確かな 時間を楽しむものではないだらうか。       (俳優・岡山公演演出担当)   

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山内宥厳先生との出合い

 

        岡 嶋 美 恵        

「出合い」とは、なんと不思議なことでしょう。何十億という人々の中から一組の 男女が出合い、親子が兄弟が出合います。そして又、友人が師弟が、隣人が、いや敵 にだって出合います。それはたまたま、偶然に、で片付けられるものでしょうか。 私がよく通りかかる古びたお寺の、門前の小さな黒板にこんな言葉を見かけたこと があります。

 「あなたが ほとけを みるまえに ほとけが あなたを みてござる」 私には、「出合い」は神さまからの、仏さまからの贈物のように思えるのです。

 それはもう十年も前のことです。ぶらりと立寄った書店でいつものように健康図書 コーナーにたたずんで、キョロキョロと書棚を物色しておりました。

 “今日は収穫な しか、もう帰ろう”と思いつつ、ふっと見上げた最上段に私の目は釘づけになりまし た。 「二人ヨーガ楽健法、医者に頼らず生きる術  山内宥厳」。

 “宥厳っていかめしい 名前だこと。坊さまかしらん。医者に頼らず生きる術だって、そう、これなのよ、今 私が求めているのは”。早速に店員さんにお願いして取りおろしてもらったその本は、 大判のずしりと重い手ごたえ。その表紙を一見して私の心は踊りました。

 真白い表紙 に黒一色で画かれた裸の美女から何やら神秘的な匂いが立ち込めているのです。 はやる心を押しつつ扉を開くとそこに著者宥厳氏が炯々たる眼光でこちらを見てい ました。“わあ、こわそうな顔だこと”と視線をずらすとこんな詩の一節が飛込んで来 ました。

 「とべそうでとべない人がいる」あ、これ私のこと。

 「とべない人やくらや みに佇つひとそしていまこの書を手にするひととの邂逅への書である」もう一度視線 を宥厳氏に戻すと、そのまなざしは私の方を見ているようでもあり、もっと遥か遠く、 宇宙のかなたを見据えているようでもあり、深く澄み切っていて私の心を捕えました。 これが宥厳先生と私の最初の出合いなのです。

 それから数年その「楽健法」の本は私の書棚の中で眠り、宥厳氏に直接お目に掛か れることもなく日々が過ぎ、私は自分の毀れかかった心と体を何とか甦えらせたいと、 書に浸りヨガの行に専念しておりました。その頃は、ヨガの先輩Nさんに助けられ教 室も三つ四つと増えていき、自分の勉強の為にも先輩の尻にくっついて東へ走り西へ 飛び、身辺がかなり忙がしくなって来ておりました。

 そんな或る日のこと、この先輩Nさんがアーユルヴェーダー研究会総会に参加して そこで宥厳氏の講演を聞き、“楽健法”をぜひ瀬戸内地方の人にもと、福山市に氏を お招きして下さいました。 当日会場の福山城の古びた一室で初めて私は宥厳氏にお目に掛かれることになった のでした。 蒲柳の質と云うのでしょうか。小柄でキャシャで少し猫背の坊さまが静かな足取り で入ってこられ、すいと着坐なさっておだやかな声で自己紹介を始められました。

 私 が写真から想像していたイメージとは違っていましたが“目”、目だけは強く深いま なざしでした。 それからほどなくして、私は宥厳氏のお焚きになる護摩供養に参加出来る機会を得 ました。その時です。私が宥厳氏に師事させていただこうと勝手に一人決めしたのは。

  あるお家での俄か作りの護摩壇でしたが、お護摩の炎は爽やかに気持よく燃え上り、 黄色の僧衣をまとって一心に祈念なされている宥厳氏の背からあたたかい気が立ちの ぼっていました。 あれから七年になります。 玉出のマンションにも何度かお邪魔させていただきました。

  楽健法も少しづつ習得 させていただきました。 しかし、何にもまして嬉しかったのは、次々に身辺に起きてくる人生の難題に打ち のめされる毎にペンを持つ私に、その都度光の差し来たる方向をそれとなく指示して いただいたことです。

 その頃、私は宥厳先生が坊さまでもなく、健康法の指導者でもなく、詩人でも文学 者でもなく、パン屋さん(天然酵母パン)でもない事に気付き始めていました。

  三年前の春浅き日、先生は仏縁あって、桜井市の東光寺という古い由緒ある祈祷寺 に住職としてお入りになられました。東光寺は大和平野のはずれ、後に吉野の深山を 控えたまほろばの地にあり、時の流れのゆったりと感じられる静かなお寺です。

 ここに入られた先生はコツコツと荒れ寺の修復に努められる一方で、色々なイベン トを催されていきます。“インド古典楽器演奏と日本昔話しの語り”とか“声明 と洋楽器の合奏の夕べ”とか。そんな時の先生は生き生きと輝いていらして演奏家の 方々と夜を徹して語らっておられます。そんな中で芸術オンチの私の神経も“美しい もの、心安らぐもの、魂の喜ぶもの”に少しづつ目覚めていったようです。

 今年に入ってからお寺では密教神智学の月例会を持っています。これは“人間の多 様さ面白さを発見する密教へのアプローチ”なのです。 この一年近く私はこの月例会で実に多くを学ばさせていただきました。人間この不 可思議なるもの、人間この未知なるものよです。

  私はかつてヨガの師、沖正弘先生(故人)から“正しくやれば必ず正しい結果がで る”という因果律を学ばさせていただきました。そして今、宥厳先生から“正しいこととはどう云うことなのか”を魂でつかむすべを学ばさせていただいています。

 先生は常にこうおっしゃいます。“私達はどこから出発してどういうものを目指し て生きるべきか”。 そしてついに宥厳先生の自作自演、劇団・阿修羅・岡山公演が実現しました。 「がらんどうは歌う」独白劇 ― モノローグ・ドラマ ― です。 私は終生、宥厳先生と共に、そして皆さんと共に歌いつづけたいのです。 合掌

                          (童游山 楽健寺@岡山/ヨガ指導者)   

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  「がらんどう」の作者のこと

                               国 分 重 男

 

 ひとつの劇団が生まれた。名づけて阿修羅という。
 サンスクリット語(Asura) に語 源をもつ命名については、次号で同人のだれかが書くはず
なので、ここでは触れない ただ阿修羅ということばの連想から、髪ふりみだした様相や荒々
しいイメージを私た ちの集まりに抱かれると、困ってしまう。
 むしろ、真剣でつつましやかな小劇場運動 −という基本の理念が、私たちの中にある。
 劇団・阿修羅は、旗揚げ公演に「がらん どうは歌う」をとりあげる。
 山内博之が書いたこのモノドラマは、昭和四五年七月に 大阪の島之内劇場で初演され、今
年の五月、同劇場で七年ぶりの再演となった。
 ほかに、京都や新潟でも公演活動をおこなっている。
 山内は日本未来派に属する詩人で、すでに一冊の詩集をもっているけれども、ご存知のよう
に、この国では詩をつくることで食っていけない。
 人はパンのみに生きるに あらず、とはいうものの、詩作や劇作のみでは、パンが危うい風
土なのである。
 彼は 指物師として自ら工房を営み、額縁などをつくることで活計をささえてきた。
 ところ が例の石油ショックに始まる不況は、彼の工房にも余波をもたらして、ここでもパ
ン が危うくなってきた。
 そこで、と詩人が考えたかどうかは知らないが工房の一画に機 械を設け、パンを焼き始め
た。すなわち彼独自の製法による天然酵母パンである。
 自然食品として高く評価されているこのパンについては、劇団と関係がないので詳 細を省
くが、材料を吟味し、低温で焼き上げるため、まる一日かかって四八箇しかつ くれないとい
うから、きわめて採算性は悪いにちがいない。
 しかし、とにかくパンは 確保できたわけだ。芝居のほうに話をもどす。
 彼が、「私のハムレット」だと言って いる「がらんどう・・」のほかに、もう一つのモノド
 ラマ「いろはにほへと」があって これは「私のオセロ」にあたり、やはり浜崎満によって
舞台化がされている。 
 いま彼の胸中にある「私のリア王」で三部作は完結し、それは近い将来に劇団・阿 修羅の
舞台となることだろう。
                    (劇団・同人/小説「長夜」は文学界に載った)         

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     「がらんどうは歌う」を観て

                              上 林 猷 夫

 五月十二日神戸の小林武雄を訪ねた。私は昭和十七年二月大阪を出て上京したので 四十年振りで逢うわけである。小林武雄は昭和十五年三月、兵庫県特高係によってシ ュールレアリスト「神戸詩人」グループの一人として一斉検挙に遇い、昭和十七年三 月まで二年間拘禁生活を送った。その際小林武雄の妻、隼橋登喜子は「椎の木」「神 戸詩人」の同人で取調べを受けたが、差入れを許され満二歳の長女を背負い、妊娠中 の身体で留置場へ通い、過労のため早流産し、出血多量による心臓麻痺で死亡したの である。

 この事件が原因となって死亡したのは、小林の妻一人であった。 小林武雄は「妻の犠牲によって私のうけた精神的打撃は徹底的なものになった。そ して、天皇制と権力(いかなる思想を問わず)への嫌悪と反抗は、それ以来理論や概 念として理解するのではなく、生理的反応のようになってしまった」と述べたことを 今もはっきり思い出すのである。そして「神戸詩人」全被告の取調べで、警察予審を 通じて係官が驚嘆したことは、被告が「生命の次は詩を作ることです」と答えたこと であった。

 この言葉は、現在幾層倍の強さを以って私たちの心を突き刺すのである。 小林武雄と相対して、私はあれから四十年生きてきた事を反すうしている。親しい詩 の仲間たちの戦死や病死の犠牲の上に、現在私たちが生きてここにあることをじっと 噛みしめたのである。

 その夜は、ちょうど大阪の詩人山内博之の作品「がらんどうは歌う」が市内南区の 古い島之内教会内の小劇場で上演されているので、そちらへ廻ることにした。

 私は小 学校三年から大阪に住み、府立今宮中学から同志社に進み、卒業後は難波駅裏の専売 局に勤めていた。岩田直二は中学の同期生である。大岡欽治は同志社の少し先輩で、 戦前は大阪で大岡の演出による作品は大抵見に行った「雷雨」「天祐丸」など、印象 が深い。

 そして、朝日会館で観た新協劇団の「どん底」で、若い私たちは人間的に開 眼して行ったのだと思う。 さて、山内博之の「がらんどうは歌う」であるが、会場の島之内教会の中央に正方 形の舞台が作られていて、白い樹脂製で、灯りが入ったオブジェが大小並べられてい るだけの簡素なものである。やがて高木宏がボンゴをたたきながら舞台を歩き廻る。

 そしてもう芝居は始っているのである。浜崎満が出てくる。そして、しゃべり始め る。

 山内博之は詩人であるから台詞には言葉の格調がある。そして声に出して言う。 全くの一人劇であるから会話ではない。モノローグである。しかし、弱々しいつぶや きではない。一人の人間の若者の生きることへの問いかけがとめどなくつづくのであ る。

 矛盾と内省と行動と苦悩が、たえず言葉の中で繰り返される。 時間の経過につれて、観客は、舞台に出ているのは一人であるが、その語りかけの 相手がそれぞれ自分であることを知らされるのである。

 さまざまな環境の人間がここ に来ているのに、生きていることのほんとうの意味について話し合っているのはまさ しく自分でなければならないと、思いはじめるのである。この間中、高木宏考案によ る奇妙な笛が鳴り響き、魂を触発する役割を果たすのである。このような逃げ場のな い一人だけの芝居は、たしかに緊張をはじめから終りまで強いられ、それ故に観客の 一人一人を呪縛することが可能になってくる。

 舞台の装飾や変化人物の交錯による従 来の演劇からすれば全く異色である。

 間がなくしゃべりつづけるのは、演者に取って 最もむずかしい芝居である。従って観客に取っても息苦しく感じてくる。何故なら、 しゃべっているのは舞台の上の人物ではなく、まさしく自分自身であるからである。

 窮極のところ、演劇の求めるものは人間の魂の在り所であり、観客自身である筈であ るからこの「がらんどうは歌う」は、個人の言葉を導き出すことによって芝居が終っ ても永遠に歌われつづけるのである。その意味においてはこの作者の意図は成功して いると云えよう。

 観客一人一人から生きる原点をえぐり出し、言葉が交錯することに よって、山内博之のモノローグが重属的に拡散し育って行くのである。 はじめに小林武雄のことを書いたのは、小林武雄や私たちが生きてきた時代を考え 同時にいま新しい世代が生きて行くことを真剣に問う時、山内博之のこの「がらんど うは歌う」が一つの重要な問題を提起し、また、積極的に演劇の根源に迫るものとし て批判を受くべきものであると信じるからである。

 岩田直二や大岡欽治が健在であり 現在も新しい演劇が大阪に生まれつつあることに心強さを覚えた。                          (かんばやしみちお 詩 人)   

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劇団に名前がついた理由

 

松 下 隆 洪

 我が劇団阿修羅が世界に冠たる大劇団なんかになったりして、ニューヨークやモスクワ、 北京なんかで公演をするようになったりした時、当然こういう時に我が劇団が、かの 先人アイスキュロス(ギリシャ悲劇の創始者)にも糸ひかんばかりの誇大妄想を云うやからがいるといけないので、このさいなぜ我が劇団に「阿修羅」という名前がついたかをことこまかに記録しておこうと思うのである。

 その頃、小生と友人の山内氏は「聖シャンバラ大白色聖同胞団日本細胞準備局」と いう、なにやらジュゲムのようなものをつくって、地球空洞説の実証のため、ヒマラ ヤ山中にあると伝え聞くシャンバラ地下王国へいざ鹿島立ちせんとかなんとかいって 縄ばしごの長さなんかについて、いじらしいほど真剣に悩んだりしていたのである。

 その頃やはり同人の佐藤氏は「ローカーヤタ・インド古代唯物論」というこれもな にやらジュゲムのような書物を出版することで上京されていた。

  箱根のふもとで朝鮮料理を食っている時、突然山内氏が「劇団阿修羅」をただいま より発足させますと、焼肉ジュウジュウの煙のむこうから、おごそかに宣言されたわ けである。

 タンとかハツの煙もその時ばかりは、ムラガンダクチ・ビィハールの香煙 に見えんばかりであったから不思議なことであった。  

 今年、毛藤、山内と小生の劇団同人は、はるかカラコルム山中の村までシャンバラ 王国への入口を求めて偉大なる探検をしたのだが、残念ながらいまだ発見にいたって ない。ただオールドデリーで山内氏は王国の阿闍梨の一人から、秘密の契印をさずか ったというから、入口発見のニュースもまじかいことだろうと、同人一同ワクワクし ていて、なにをかくそう我が劇団の一大目的は、地球空洞説の実証と、よって生じる 地球的規模の、パニックに対する救済措置について学究する哲学者集団なのである。

 この点は今後「ヤポネシア演劇史」を研究する人々が、かくもバカバカしくて気宇 壮大なる集団がこの年、ヤポネシアのふるさと陸奥へ、出立する頃のできごとであっ たことを、ぜひ覚えておいてもらいたい。          

                (昭和五三年阿修羅通信第二号で活字になる予定だったものの再録)
                               (平塚市・宝善院住職)

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劇団「阿修羅」一年をへて

 

山 内 博 之

 

 劇という字は激しさ、強さなどを意味していて、これが芝居の意味にあてられるの は、芝居というものが劇しいものを内包するからではないか、などと勝手な素人考え をしていたが、漢和辞典を調いてみると、伎に通じて芝居を意味するとある。

 劇団と いうのは、伎をともに行う集団なわけで、伎は技に通じていて、一芸に秀でた人間た ちの集まりこそ、劇団と呼ぶに値する。そういう意味では、役者をやりたい人間ばか りの集団は、劇団ではないのである。

 一人の役者が舞台を踏むためには、劇作家、美 術家、音楽家、演出、制作、照明等と、各ジャンルの、一芸に秀でた人間の協力なし には有り得ないし、入口で切符をもぎる裏方も、ちゃんとした舞台芸術創造の一員で 俳優と優劣はないのである。

 因果、因縁という、佛教的なことばは劇団活動のどの部 分一つをとりあげても、当てはまることばで、抜き去ることのできない歯車なのであ る。これを読んで下さっている人も、芝居を作る上で欠かすことのできない、見物と いう歯車の一つなのである。  

 劇団阿修羅の同人も、いろんなジャンルの一芸をきわめた、あるいはつつある人間 たちで、劇を作るには、もってこいの仲間だといえるだろう。

 今後どのような形で活 動するかとなると、我々には金もなく前途はきびしいが、発足一年を経たいま、阿修 羅らしい劇しい新作をもって世に問うべきだとの気運は盛りあがってきている。「が らんどうは歌う」も長期にわたって回を重ね、多くの人々にみてもらいたいが、次の 作品の準備も進めており、阿修羅らしく、名は体を現わすというような作品を世に問 うことを、ここに予告しておこうと思う。

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あ る 旗 揚 げ

 

山 内 博 之

 

  劇団阿修羅の唯一人の俳優である、浜崎満は、「二人だけの劇場」というのを、個 人で
やっていた。名付けたのは藤本義一で、演じる者と観る者との二人という意味で あろうか。
 劇団という、目的は一つの筈だが、実際は雑多なと呼ぶ方がぴったりする 人間たちの集ま
りが、創造活動以外の、下らない次元でもたついていて、ろくでもな い仕事しかしないこと
に業をにやしていた浜崎が、大阪で個人で始めた演劇活動であ った。十年前のことである。
 
 初演の作品は木谷茂生の「太鼓」と中島陸郎の「赤と白 と黒の幻想」であったが能舞台を
使った「太鼓」の舞台は私がいくつか観た「太鼓」 のなかでも秀抜であった。 
 高い気分で貫かれていて、あの舞台を私が観ていなければ、「がらんどうは歌う」 という
この芝居も書かれなかったにちがいない。
 中島陸郎という劇作家を介して、浜 崎満を知った私は、中島陸郎の強い勧めと「太鼓」の
舞台での浜崎満の強烈な印象 を土台にして、「がらんどうは歌う」とう独白劇を書き始めた
のである。 
 
 役者の舞台にかける欲求というのは想像以上に貪欲である筈だが、その芸への貪欲 さを思
うさま発揮する舞台というのは、独白劇にきわまるであろう。
 かくいう私もい ささか俳優の経験があってその貪欲さにおいては人後に落ちないつもりで
ある。
 役者 としての舞台における気分のいいセリフをふんだんにしゃべらせてみよう、というの
が、この独白劇の第一の目論見であった。 
 そうして私は、とにかく一篇の独白劇を書きあげたわけだが、芝居としての出来不 出来は
二の次として、貪欲さを満足させる戯曲には成り得たと思う。
 「二人だけの劇場」第三回公演にこの独白劇は上演された。 
 七年前のことである。浜崎満はこの戯曲に魅せられてはいたようだが、貪欲さを満 足させ
るところまでは踏みこめなかったというべきであろう。
 
 この戯曲は並の役者の 貪欲さくらいではこなせるものではなかったのだ。戯曲のほうがは
るかに貪欲で、実 に多くのことを役者に要求する。
 そうして今年、浜崎満は再び「がらんどうは歌う」 に挑んだのだ。
 その成果について云々することは作者として差しひかえるべきであろう。
 貪欲さにおいては、戯曲もその作者もまだまだ浜崎満の上を行っていると思うか らである。
 
 しかし、今年の彼の挑戦の結果が、劇団阿修羅という形となって、現われ ているというこ
とは、その成果についても多くのことを語っているのかも知れない。 
 初演の時にはおよそ考えもしなかったことだが、ひとりの役者のひたむきな舞台が、演劇な
どというものから、足を洗ったつもりの中年の男たちを、再び劇団活動のるつ ぼのなかに投
げこむということは、特筆すべき事件と言える。
 元関西芸術座の安部信 を始めとして、同人の顔ぶれも多彩で、異色である。
 顧問の宮坂宥勝師も、まさか劇 団に名を連ねるなどということは、夢想だにしなかったに
 ちがいない。だが、劇団阿 修羅はその名にふさわしく、縦横無尽の活動の第一歩を踏みだ
した。
 「がらんどうは 歌う」という片々たる独白劇が、作者の手を離れ、役者の手を離れて、貪
欲に歩きだ したということは確かで、一つの作品の運命の不思議さでもあると言えなくもな
いが それは浜崎満というひとりの役者の、舞台にかける執念、貪欲さに対する、当然の報酬
なのかも知れない。
                                  (詩 人)
               (昭和五三年十月二十日 「流動」昭和五二年十一月号より再録)
 
 
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