「自動小銃の銃口から覗いた風景」

 中島陸郎戯曲集

                      

     跋

                      山内 宥厳

 僕らの世代は自己犠牲をいさぎよしとするようないわば古風な世代である。陸郎との出会いがあったころ、僕らの世代はくらい時代にふさわしく、陰々とした翳を曳いていたにちがいない。演劇などというものに埋没していったために、さなきだに薄給だった僕らの仲間のいく人かは、充分に栄養も摂れないような生き方に甘んじていた。とりわけ陸郎はきびしい状況をかかえて生きていたが、それを他人に毛ほども知らさないような矜持と節度を保っていたため、彼の人生に対する態度には一見ひややかなものが感じられた。それが演劇活動をてきぱきと処理し進めるところの原動力にもなっていて、活動を容易にしてはいたが、どこかに、淋しさを覚えさせるところもあった。大阪円型劇場「月光会」というのは、内田朝雄をリーダーとする劇団で、円型劇場という、空間の中央に舞台を作って、ぐるりから観客が芝居をみるという形式を劇団の上演形態としていたため、額縁舞台しかやらない演劇界にあっては、前衛劇団として特異な存在であった。陸郎はこの劇団の創立時からの主要なメンバーで、裏方として劇団を支える貴重な一方の柱であった。内田朝雄は三十路の半ばであったが、よく勉強していて話術に長けた理論家であった。彼は演劇のみならず、あらゆることに通暁していて、その熱っぽい説得力は、その鋭い眼光とともに、若い劇団員たちを魅了した。彼は劇団のリーダーであり、人生の師でもあった。彼は時には人としてあるべき道をも説いた。そうしたリーダーを持つことはこうした運動には不可欠で、幸せなことだったにちがいない。しかし彼は有能である反面、その自信から必然的に導きだされる独善ということもあった。わたしが月光会に参加していた期間は長くなかったが、わたしが劇団を去ったのは、内田朝雄にその独善を強く感じたことが第一の理由であった。彼は一見ものわかりのいいやさしげなリーダーであったが、わたしは彼のなかに、他人に対する思いやりというものが欠如していることを見い出していて、信ずるに足りないと考えていた。

 わたしは劇団を去る時に、陸郎にそのことを長文の手紙に書いて送った。深入りするべからずと。陸郎はそれから数年後にわたしの手紙の意味を知ることになる。月光会は、かつて内田朝雄が熱っぽく説いたさまざまな言葉が、意味を失うような形で瓦解をむかえることになる。その時から、陸郎の生きざまは苦汁に充ちたものとなる。陸郎はもの書きとしての堅固な密室をもっている男ではあるが、密室を持っている男も深傷を負うものだとは気がつかなかった。彼がのめりこんでいった対象は、彼の努力に値したかどうか。

 演劇は時間芸術であり、それは人生に酷似していて、はかなく、もろい。青春の一時期というには、陸郎の月光会でのくらしは永すぎたかも知れない。彼は独りで、不足がちのくらしを好んで選んでいたため、テーベにも罹ったし、女を口説くひまもなかったし、思いつきもしなかった。そしてこつこつとその余の時間を劇作につぎこんでいたわけである。

   月光会が解体して、内田朝雄は売れっ子のタレントに変じ、陸郎は転職したが、彼は瓦解にいたった劇団のことをいく度も反芻し、おのれの青春の生きざまを、以来、今日まで十余年になんなんとする歳月の間、考えつづけて来たのである。その苦き歌が、「蘇りて歌はん」である。それはあまりにしゅうねく、ながく翳をひいていると人は言うであろうか。

 反芻し思考を重ねたあとで結晶することばとなる。そうして書くことが、生きて在ることの唯一の証しなのだ。自分の背負っている業なのだと彼は考える。僕らは自己犠牲の世代だと初めに書いたが、陸郎の場合はそういう傾向がとりわけ顕著なのだ。彼は月光会や内田朝雄の犠牲になったわけではない。だが月光会で苦楽を共にしながら、そこで培った純潔な思念の犠牲を強いられるのは、彼にとって耐えがたいものであったろう。そのやり場のない気持が、劇団の瓦解にいたるいきさつを書いたものになって現われたこともあった。わたしと陸郎との交友は深く永いが、僕らはそののりをこえたりしたことはない。月光会という劇団を介して、良き多数の友人を得て、彼は風のように付き合っている。序文を頂いた、陸郎の師と仰ぐ劇作家・木谷茂生氏も、この本の装丁を引きうけてやって下さった鈴木俊郎氏もまたそうである。

 演劇の世界では上演に値する、劇団の要求にぴったりくるような戯曲というものは探すのがむつかしい。まず無きに等しいのだ。そういう意味では、劇団というものは、自分たちの手で創作劇を書くことが、最も望ましいことである。この戯曲集では、月光会時代に書いた作品と以後の作品とがあるが、月光会時代に書いた作品について、リーダーの内田朝雄は、まともに評価し、上演、演出しようという方向にもって行かなかったことは、前衛劇団にふさわしいレパートリィを、何ひとつ持っていなかった月光会にとっては、残念であるし、不可解なことでもある。劇作という仕事は、芸術のジャンルのなかでも、きわめて恵まれないものである。したがって書き手も少ないし、どこの劇団においても、レパートリィを探し決定するのは、何よりも大変なことなのだ。そういう状況のなかで、劇団の内部から、有能な劇作家が育つことは、待望されねばならないが、月光会においても、そう望まれたことはなかったし、陸郎がこうして一冊の戯曲集をだすようになったいま、それを待望する劇団がないことが、わたしには淋しい。だが彼はいまこうして自らの青春を記念すべき作品たちを、世に出すことになった。

 わたしには、かねてから陸郎と約束があって、この戯曲集は、彼が果てた後に、遺作集として、わたしの手で出版されるはずであった。その約束は、彼が不惑に達する前、医師から新たな病を宣せられた時に、わたしと交わしたものである。哀しいかな、彼は悟りをひらいた人の顔をして、わたしを、遺書受取人に指定した。どうしてわたしにそれを拒否する理由があるだろう。陸郎はわたしとちがって、いく年かをサナトリウムで送ったし、そういうことに関しては、人生の先輩である。わたしは酔っぱらいながらだまって聞いているしかなかったのだ。しかし、幸いにして、彼は誤っていた。克服したというべきかも知れないが、病気などというものは精神の酩酊に過ぎなかった。危険は一応去ったかにわたしには見える。しかし彼の肉体と精神を一過した何かが、彼を何処かへ連れ出そうとしていることは確かだ。陸郎はいま、「自動小銃の銃口から覗いた風景」という一冊の書物を残して、青春という、どこかに葬送曲のただよっている時代の淡い層をつき破って、駈け去ろうとしているのであろうか。

 中島陸郎の青春の重さが、この戯曲集の作品のひとつひとつに沈んでいるが、陸郎よ、いまこうして僕らの掌にのせてみると、僕らの青春というものは、並の苦しさではなかったが、それ故にこそ、悔いなき、貴重なものであったとは思わないか。

                         (詩人・「日本未来派」同人)