高野山 真別所 1987年 四度加行中に詠んだ歌
磐余山東光寺 山内 宥厳
理趣經加行結願
しとど降る雨だれの音身にしみる
円通律寺昼食を待つ
雨あしのすぐ目の前がもやうなり
本堂の様墨絵の如く
百禮の膝の痛みもうち忘れ
大師御寳號千遍唱ふ
身はひとつ思ひははるか天がける
縁あるひとまだ見ぬあした
胎内にゐるが如きかくらやみを
破りて響く三通三下
入堂朝4時
二十四人行者の唱ふ読經の音
堂にこもりて天の樂なる
あすなろの大樹の姿たくましき
円通律寺で學ぶわれらも
無言にて打ち並びゆく下駄の音
如法衣の黄色苔生した墓地
指折りて数へることはあきらめり
けふ一日を貴しとして
佛縁に結ばれてあり法衣着て
弘法大師の御廟に参る
白糸で蝙蝠傘に名前書く
木綿の針の似合はぬわが手
左手に数珠をくりつつ百禮す
オンサラバタタギヤタハンナマンナノウキャロミ
南無大明神唱うるうちに舌もつる
つまづくごとに数珠くりなほす
閼伽井戸のつるべの水音なつかしや
幼き日々の水あたたかき
五月四日二時半閼伽水をくむ
あと二分などと時計をながめつつ
さまにもならぬ歌つくりおり
冷えこみもここでは冬の厳しさよ
五月五日の紺碧の空
灌佛会花盛られたり本堂の
裏山ちかくうぐひすの鳴く
日光浴したき冷えこむ居室には
うぐひすの聲さんざめく聲
年一度女人禁制解かれたる
円通律寺に児や女らの聲
明遍の淋しき墓のたたずまひ
ゆんでに見つつ寺へと帰る
火の気なくしんと冷えこむ居室には
食事待ちわぶ若き僧たち
勤行の淋しきしらべ前讃の
節身につかず耳を澄ませる
花御堂掌に乗るやうな誕生佛
甘茶そそいで五体投地す
束の間の谷間の寺の陽差しなり
もの思ふわれをやさしく包む
じっと見るわが掌の線は錯綜す
五十路の行方いずこに向ふ
灌佛会お供への菓子多かりき
若き僧らのにこやかな顔
西日差し居室の障子の影絵ゆれる
高野槙なり円通律寺
薬食の時間おそしと待ちわびる
若き僧らは戸口にて立つ
御影堂の前に並んで読經する
入山前の思ひ出胸に
差し入れの焼き餅二つに切り分けり
平等行食虚心合掌
同じことくり返すことが行ならん
人の世なべて行ならざるはなし
暁暗に小鳥のさへずり響きける
しびれる足を耐へながら聴く
早足で行者は歩くものならん
手合はすひと目尻に捉へて
足袋洗う洗濯板の感触よ
思ひもうけぬ日々また楽し
微動だにせじと心に決めてより
足の痛みも楽になりたり
一日に三百四十二禮する
空しからずやと思ひかすめる
世の中はいかなる事や起りけん
諸佛の御み前ひたすら拝む
ひたすらに想ひつづけるひとあれど
別のひとのみ夢にあらはる
過ぎ去れば五十路のけふまで束の間よ
百三十五日何故にながきや
ごちそうの出るはずもなき食事なり
なにが出るかと話題にのぼす
うぐひすの聲聴きながら練習す
聲明の節ままならず
日曜も祭日もなき律の寺
陽差しばかりはやさしかりけり
草むしり土工の真似も作務でする
腹に力のないことも知る
捨てて来し妻の夢みてうなされる
祈りて我に念おくるやも
わが道に誤ちありやこの道は
定められけんわが選びけん
訣別を言ふは安けど因縁の
深きか夢に立ち現はるる
勤行に念珠忘れたり如法衣に
手をひそませて合掌をする
黄金の海はるけき空に浮かびたり
凝視めゐるわれ大門の陰
入山の瑞兆ならんか黄色の海
はるけき空にまぶしく浮かぶ
杉木立亭々とした石畳
霧雨やまず下駄音低し
聲明の讃頭はじめて勤めれば
作法もそぞろ鉢の音高し
はるばると来たるものかな転々と
生けるものかなふるさと想ふ
いまごろは朝餉の仕度するならん
猫二匹鳴く部屋を偲べり
釈迦如来静かにわれを見下しぬ
三昧遠し下界を想ふ
聲明は小鳥のはうがうまからん
うぐひすの頭山鳩の助
飢餓感も身にひしひしと迫りくる
行の激しさ餓鬼道もあり
薬食をいまや遅しと待ちうける
若き行者ら施餓鬼するなり
正座行しびれのとれぬ足を揉む
凍てしわが手に足あたたかし
二日間降り止まぬ雨暗き空
巣にこもりしかうぐひす鳴かず
かゆ腹のけだるき思ひ端坐して
読經の声に艶なからんか
落ち込みし気分は雨の故などと
過ぎこし日々の思ひたちきる
道場から帰ればかすかにあたたかし
火の気なき居室に人の気残る
二十年これから役に立つならん
五十路のわれに時間貴し
朝には理趣經唱へ夕には
観音經唱ふ得難き日々を
歩々と行く蓮華の上のくらやみを
導かれるかみ佛の道
雨あがる奥の院参拝する日なり
小鳥の聲に耳傾ける
意味知らぬ真言となへ有難し
数多の佛加護をするらん
差し入れの菓子ほほばって時計見る
初夜の入堂時刻ちかづく
經文の暗誦なかなか身につかず
夜半目覚めて唱えみるなり
寄り道は許してくれぬ身なれば
明遍の墓はるかに拝む
しゃくなげのやさしき色や白椿
霧這ふ庭にいま花盛り
亭々とそびえる松の見事さよ
施餓鬼見守る鬼神の如し
厳しさも優しさもあり律院の
くらしに慣れて一月が過ぐ
西陽だけからうじて差す居室にて
黙念するや過ぎこし方を
行者とは物言はぬもの歓談は
裸になって風呂でのみする
大僧の寝過すことも人なれば
三通三下の鐘なし入堂す
夢も見ず目覚しまでは熟睡す
暮し慣れにし律院の日々
永遠に生きたためしは無けれども
さきあるごとく加行に励む
何人が照覧するやきのうけふ
われより他に知るひとぞなき
百禮の数少しと注意され
またやり直すこの気恥かしさよ
百禮をしつつ妹には重からん
作業の手順思ひ浮かべつ
うぐひすの鳴く聲聴けば去年の初夏
繁く歩みし六甲想ふ
変らずに在れと念ひつ日を送る
吾妹は部屋でペン握るやも
さわさわと葉ずれ淋しき竹林の
窓辺に寄りて烏鳴く聴く
去ぬる年さほど燃えにし情念の
いずこに行きし身心寂静
澄みわたる高野の森の空仰ぐ
紺青深きネパール恋し
欣求する浄土はいづこはるばると
のたうちまはり探しきたるも
小綬鶏よいづこにひとり旅立ちし
鳴かぬつれあひ連れての旅か
廟参の日には不可思議雨あがる
佛の加護か心かるがる
廟参の老男老女多かりき
田舎の顔でわれら見守る
日毎する施餓鬼の味を覚えしか
山鳩はくる読經の聲に
供養とは佛さまとのままごとか
とりかへとりかへお經をあげる
積み置きし善根なくて読經する
行方定めぬ五十路の朝
何がため誰がためかと問ひはせで
ただひたすらに經を読むなり
經に明け經にくれゆく日々なりき
日がな鳴きおり小鳥に似たり
伝授する和上の声はふるさとの
なつかしきなまりきびしきなかに
簡単なマントラ試験するといふ
覚えのわるき頭をなぐる
沐浴のふんどし干しつつ室友は
トンカツ食べたいしみじみと言ふ
呪を唱え早暁冷たき水かぶる
想像ほどにはつらきことなし
荷車のきしるが如き鳥の聲
いかなる鳥や姿見せてよ
一椀のおかゆ梅干塩こんぶ
味はひ食べるいとまもあらず
読經する真言唱ふ鈴を振る
念珠すりつつしびれをも耐ゆ
この行法終ればすぐに昼食か
などて思ひつ念誦に励む
しもやけの小指かなはぬかゆさにて
子供の如く噛んでみるなり
せせらぎの音消す如き雨となる
出るあてはなし雨よ降れ降れ
ままならぬ世の中だとは思へども
己がこころもままにならざり
うぐひすは經読み鳥ともいふならん
寺の四囲のおちこちで鳴く
雨季なるか数を繰る数珠しめりおり
人差指のすれるが痛し
濡れそぼる山脈はるか鳥の聲
浮かれて鳴くにあらじと想へど
数分の時の大きさ教へらる
追ひたてられて惜しまず動け
尻上げて雑巾掛けにつっ走る
長き廊下よ校舎なつかし
瞑想を教へし室友束の間も
法界定印静かに坐る
この庭に佛種蒔かれて育つらし
はればれの午後折紙伝授
散念誦数多ければ急ぎたく
これより他にすることなきに
じっくりと味はふごとく散念誦
終りしあとの気持の良さよ
やわらかき西陽居室に木漏れおり
掌にて掬ひあげたり
覚えよと宿題出されし經をよむ
門前の小僧うらやましと思ふ
ふとん干す祖母のふとんのなつかしき
日の光匂ふ木綿の厚さ
散念誦心急げば疲れたり
味はひながら楽々と誦む
オンバザラダドバンだけを千念誦
加行の峠か三昧境か
悲しげに鳴く鳥ありき暮れなずむ
空を見上げてわれも哀しき
月曜はパン焼く日なり後にした
記憶のなかの手順を想ふ
光の海念誦重ねつ現はるる
五体軽々浮かぶが如し
定時まで熟睡せんと願ふなり
お茶をこらへてつばき飲みこむ
なにがなし哀しきものよへだてらる
遠きにあらねど逢へぬ想ひは
かっこうの声まろやかに聴えくる
間のとり方のあのゆうゆうと
かっこうの鳴き声始めて耳にする
山林静か留まりてあれ
食事時耳に聴ゆる音楽の
幻聴なればあやにうつくし
かっこうは恋ゆえ止まず鳴きぬるか
子どもはひとの巣で育つらし
耳にせずなりてかれこれ五十日
傾聴したしわがモーツアルト
太きペン握りて記す両の手に
しもやけ痛し見つめつつ書く
日記帳つけつつ甲斐なき物思ひ
アルビノーニの曲われ知らずでる
去年のいまアルビノーニに聴き入りし
苦悩の日々を如何に思はむ
散念誦しずかに繰れば黄金の
かすみ広がる不可思議の空
黄櫨の木に気触れし指のはれあがり
曲りがたきを念珠繰る日々
食ゆえかつるりと光る肌になる
手を撫で眺む人生重し
老僧の寂々とした聲明に
耳傾むけつ道程想ふ
幸せで過してくれと祈念する
妻の眼差し思ひ泛べつ
二昔まえに果てたりたらちねの
母立ち現わるる夜毎の夢に
いかほどか孝行したるつもりなり
慙愧身を食む思ひ出もあり
一人去りまた一人去りしていまはただ
健在なれとはらから祈る
冷えこみの厳しき朝の道場で
明けゆく空に心なぐさむ
碧落の浪速にはなき澄明さ
カトマンドウの日々なつかしむ
指は脹れ痒さもひどし身をよじる
集中ならず固く眼を閉ず
四時ならばもう白々と明けそめる
高野の山の杉黒々と
次々と日程細かにこなしつつ
五分の時の貴きを知る
大盛りのスパゲッティ楽々平らげる
わが胃袋に敬意を表す
逸るとて月日の流れ変らざり
日記つけつつやはり日を繰る
味噌汁に数個のだんご沈みおる
心遣いの食当にくし
十度からいきなり二十五度になる
高野の寺の気まぐれの気
空腹の朝待ちかねし一椀の
粥の後味ほのかに甘し
梅干のどこにでもある味ぞかし
静かに含め思ひ出充ちる
足首に座行の厳しき傷できぬ
あきたる穴から生命もれ出ず
沛然と音も激しき庫裡の屋根
受戒を受ける背に響きけり
受戒受く一〇八人の求道者
青き眼の男女もゐたり
丁字噛む受戒の式の堂前に
雨脚しげくわれ宙に浮く
妻からの心盡しの荷をほどく
眺める行者眼なごめり
霧雨に変りしけふの受戒式
なに手遅れかしとど待たさる
三百余み佛のみ名称へつつ
百余の沙弥が三百余禮す
經文の暗唱テスト落ちこぼれ
五人の仲間と懺悔行する
疲労したからだむち打つ三百禮
こころのなかはすがすがしけり
密教は観想抱く世界なり
佛になったり罪を負ったり
腰痛に悩まされつつ入堂す
などてか暗くこころ沈めり
追試まで落ちこぼれたり立義文
覚えし筈が出てもこないで
日程の半ば過ぎたり昨日今日
しきりに想ふ出で発ちし日を
御影堂の陰くっきりと心にも
焼きつきたればひとしほ思ふ
慚愧多き半生なればここにきて
読經三昧ひねもす合掌
碧落の吸ひこむ如き森の空
烏さかんに何事かいふ
わが選びし半生なればつれあひの
ことあげなどはすべきにあらず
夜に日に断ち切りし筈の妹が身を
思ひて口に真言唱ふ
別れても愛せざるにはあらざりき
愛あらばいまわれ発たしめよ
雨上り赫赫と燃ゆ陽の下に
せせらぎの音小鳥鳴く聲
鴬の聲聴かぬ日無くしみじみと
ここにくらせり共生の浄土
束の間の夢に現はるきみが影
目覚めざりせば逢へにしものを
あと二分あと一分と数へつつ
想ひをこらす歌の生命に
六月も二十日を過ぎてなほ寒き
高野の寺の沐浴の音
ほのぼのときみが想ひ出抱きつつ
冷えこむ床に横たはる我
夢ならばせめて優しく抱けかし
つれなきわれは心凍てしか
ここに来て過ぎこし方をふともらす
老い自覚する行者きびしき
半生はうたかたなりしこれからは
いかに歩まん念珠握りつ
いまははや晩年だとの自覚あり
こころの逸る日々過しつつ
つぎつぎとこころを過ぎる想念に
惑ふ日もありつよく合掌
ご寳號唱ふるうちに物故せる
身内の姿ありあり泛ぶ
父想ひ母想ひつつ散念誦
生きてありしぞわが血の裡に
高ぶりし荒りし日々いづこへか
和やかなりき掌あたたかし
麺麭の香も蜜柑の香もうれしけれ
なに想ひつつ荷造りせしか
懺悔なき身にはあらねど半跏趺坐
われ佛體なりと観じ目を閉ず
雨季去りし高野の森の碧落を
見上げ見上げつ濡縁を拭く
すらすらと出来る日もありぐずぐずと
詠めぬ日もありされどペン持ち
作務衣着て作務するわれを見し姉は
なに思ふらんなつかしき顔
久々に見し姉の顔つつがなく
夢見のわるき杞憂ぬぐひたり
青空も陽差しも風も哀しけり
寄る辺はいづこ漂へるわれ
凝然と行方見詰めておりはせじ
けふ一日をただ生きて在れ
み佛はわが身を使ふて何かせん
保身の術は思ひ浮かびも
耐へがたき思ひがつのる昨日今日
残りの日々の憎きながさよ
しばらくは歌も詠まずに日をおくる
こころいづこかさまよひゐたり
恋人よいかなる日々を過しけん
身悶えつつ行を重ねる
日程もほぼ大詰めと迫りきて
宿業深し変らざるわれ
降りやまぬしぶとき雨の音聞けば
雨季の旅路がまた蘇る
祖母の死も知らずに過ぎし若き日の
雨季の旅路かくり返しおり
もう五日降りやまぬ雨かいくぐり
ひぐらしの声肺腑を抉る
夕暮れに鳴くひぐらしの声聞きつ
まだまだ遠し下山の日思ふ
護摩の火の赫々と燃ゆ束の間に
支木投げつつ生きざま思ふ
結願の夜静かに手を合せ
ねぎらひ呉れし師うれしかり
夢にみし丸山博和服着て
われ聲かけど無視して去りぬ
残る日も指呼の近きに迫りきて
くたびれたるかみなもの言はず
晴れわたる空見上げつつ
明日は原爆の日と思ひだす
伝法の灌頂を受けくらがりの
燈火みつめる空しきからだ
延々と受けつがれ来し灌頂の
壇に入りて暗きを感ずる
なかなかに時は流れず烏鳴く
聲聴きながら下界を恋ふ
去ぬる日も一桁台にと迫りきて
じれる想ひはいま盛りなり
小雨降る律寺の庭にしのび寄る
紅葉の紅よ初秋の冷気
成満の日近き雨の日の
障子張る僧刷毛の手早し
行道の成満の朝心澄まし
耐へ過したる日々ふり返る
七 寶 瀧 寺
紅葉の七寶瀧寺に留錫す
護摩赫々とわが頬を染む
祖父母住みし廃屋の庭にしゃがの咲く
五十回忌の墓前に供ふ
【 俳 句 】
剃りたての青き頭に若葉映ゆ
身につきし衣着る日々夏近し
鳥の聲繁くなりたり雨上る
しゃくなげの木立心經こえてくる
ひび割れも癒えてしゃくなげ花盛り
獅子吼する松籟背骨に共鳴す
小綬鶏に呼ばれてついと腰うかす
小綬鶏の甲高き聲妹に似る
また冷えて小用近し手をこする
月飛ぶ夜明けて袂を分ち生く
あてもなき道程なれば旅を行く
みじか夜や名残りの肌でもみじ踏む
杉木立墨絵の如く霧沈む
色を増す緑に染まり番茶呑む
うぐひすや遠ざかりつつわれを呼ぶ
しもやけの指さすりつつ歌を詠む
沐浴の飛沫すさまじ若き僧
うぐひすが鳴きやみてのち蛙鳴く
かっこうの鳴く聲聞きつ便所待つ
煩悩もここで盡きたり真別所
艸深き共生浄土に日が暮るる
寢苦しき一夜が明けて深き碧落
閉じてきし扉のなかの眼が凝視め