日本未来派215号2007年6月刊行 <特集>詩と経験 掲載


ことばのみなもと 

  詩 と 経 験            

  ーこの世の終わりのその日の夜明けー

                           山内 宥厳 

                         

 ひとは癌という病気をとても怖がる。癌の宣告を受けると、たいていのひとは絶望する。体感的にはどこにも異常など感じていなくても、健康管理のつもりで受けた健康診断などの結果、癌を宣告されたりすると、とたんに、死と隣り合わせになった気持ちになり、ひとの元気の気がなかば死んでしまう。

 いままで終わることはないと思っていた平穏な日常から、生存の時間を限られた枠のなかへ放り込まれた気分に支配される。 カウントがはじまったのだと思いこみ、なんとか逃れるすべはないかとあがきのたうちまわる。現代医学の癌の三大治療、手術、抗ガン剤、放射線治療、あるいはそれを拒絶しての自然な療法など、なにを選択するかは自分の意思次第だが、どれかを選択するとしても、どれも信ずるには足りない。ほとんどどのひとはみんなが選ぶ三大治療の道へと向かうことになる。真っ黒のマイナスイメージのなかで、奇跡は信じたいが「この世の終わりのその日の夜明け」は確実に近づいてくると思いこむ。

 詩と経験というテーマに、癌のたとえを持ち出すのはふさわしくないかも知れないが、癌の経験をすることは人生の一大事である。生か死かという難問以上の問題はあるまいと思われる。癌患者の苦悩に比すれば、詩の経験などというテーマはなんと些末で取るに足りないことだろうか。

 癌は現代の流行病で、現代医学が進歩したといいながら、死者数が少なくなったわけではなく、治療が進むにつれ、ひとびとがどういう結末を迎えるのか誰でも知っている。癌ほど人間の想像力を刺激しつづける病気はないかも知れない。癌より怖い病気が沢山あるにもかかわらず、人はそれほど日常的に不安を抱いて、想像力をかき立てられることはない。交通事故死を恐れるに似て、現実に起きるまでは他人ごとなのだ。癌は突然死することがなく、かなり長い時間、生体の摂理に逆らう過酷な治療を受けながら死んでいくために、恐怖が大きいのである。宣告を受けても、気にしないでほったらかしておけば、あるいはなにがいけなかったかという生活習慣に気づいてそれをやめれば、風邪でもひいていたかのように、そのうち消えてしまうかもしれないのであるが、そんな奇跡はあり得ないと思いこむところから暗い想像力が活性化するのだ。

 しかし、癌の宣告を受けて死と直面しながら、その経験を詩に書くという人間も大勢いる。末期の経験について、ペンを走らすということは、詩人ならではのことかも知れない。

  死への経験を目をそらさずに書き残すということは、物書きにとって千載一遇の恰好の悲劇的題材ではないだろうか。そのときにこそ、自己・人間の本質と向き合って、揺れ動く己の死と向き合ったこころを詩と化することができるのである。

 死を見つめるということは、詩を生まざるを得ないこころではないだろうか。

 

 「あと一時間だなぁ」

 老衰しきった小柄な躰で、ながくものをいわなかったのにぽつりとそういった。躰に起こってくる死への移行の体内の変化を、この人はずっと観察していたのだと知って、奥さんはいかにもこの人らしいと、冷静な気持ちでこの最後の一言を受け止めた。きっちり一時間後に彼は息をひきとった。納得した表情で微笑していた。丸山博、一九九六年十月十日享年八七歳。ひとりの衛生学者が消えた。

 

 私が、桜の頃になると訪れたくなるのが河内長野の観心寺である。国宝の如意輪観音の年一度の秘仏本尊御開扉が四月十七〜十八日で、観心寺では桜の花見頃でもある。観心寺の門前に古い平屋の大きな家の、昔は料理屋かなにかだったそうだが、阿修羅窟という名前の茶店がある。ここの御主人は佐藤任さんといって、インド哲学の在野の研究家でアーユルヴェーダや密教関連の本もたくさん出版していられる、かなり変わり者の友人である。

  私がはじめて観心寺の御開扉に参拝したのは、昭和五十一年の四月十八日のことであった。御本尊の木彫如意輪観音は、薄暗い本堂の正面の御厨子に祀られていて、この扉が開けられ、彩色がまだ鮮明に残っている六臂像の御本尊がほのかなライトに浮かびあがる。住職の丁寧な解説があり、信者というよりは、この仏像のファンと呼んでもいいひとたちが全国からやって来て、長時間、飽かず対面して座っている。

 観心寺の気風とでもいうか、宣伝も控えめなので、あまり混むというほどの人出ではなく、落ち着いて拝観することができる。 私は境内の散策のあと、阿修羅窟へ行き、忙しく賄いで立ち働いている主に声をかけてから座敷へあがった。座敷からは裏庭に咲いている満開の桜が一望でき、その向こうの一段低くなったところは川が流れ、瀬音が聞こえている。佐藤さんが間も無くやってきて「山内さん面白い方を御紹介しましょう」といって、近くに座っている小柄な老人のところに誘った。この場所では和服のほうが似合いそうな風貌の小柄な痩せた人だった。挨拶を交わし、向かい合って微笑しながら私を観察しはじめたのが、大阪大学医学部の衛生学の教授だった丸山博先生で、私が頭を下げたとたん矢継ぎ早に質問が飛んできた。

 「きみはなにをする人かね」からはじまり、答えるたびに「それから」といって先をうながすのであった。そのつど「詩を書いています。彫刻をやっています。指物師です。真言宗の僧侶です。天然酵母パンを焼いています。楽健法というものを広めようと活動しています」などと、やや詳細にもわたって答えたが、まだまだ他にもなにかしている人間だと、見通していられる様子であった。

 「それから」

 「芝居をやっています」と答えたとき、

 「ほう…どんな芝居をやるのかね」

 と話題がしばらくそこで立ち止まった。

 そこで、翌月に公演予定の「がらんどうは歌う」という芝居のことを話すと、「観たいものだね。観に行ってもいいかね」といたく興味をしめされたので、後日招待券をお送りした。

  芝居仲間の中島陸郎につよく勧められて私が初めて書いたこの一人芝居は、南区の島之内小劇場(教会)で再演されることになっていて、私は演出を担当し、俳優浜崎満が演じた。公演の初日に、丸山先生は奥さんと観に来られ、舞台がはねると楽屋へとやって来た。

 「山内さん。これは大変な芝居ですよ。感動しました。私は長年教育にたずさわってきましたが、これほど深いものを学生たちに伝えたことがないです。学生にこの芝居を見せて、わかったといえば卒業させていいような内容の芝居ですね」

 丸山先生は熱っぽく、激賞してくださったのであった。

 過分の褒め言葉だと思ったが、初対面のとき、いろいろ話しながら、この先生はなんと詩心をもったすごい人なんだろうと感じていたので、その先生からこのように言われたことは心底嬉しくもあった。

 数日して、先生からお電話をいただいた。

 弾むような明るい気分で、「まーるーやーまーでーす」とおどけるようにいってから、「先日はありがとう。いいものを見せていただいて。ところであなたに頼みたいことがある。少し力を貸していただけたら本当に助かるんだが…」

 そうして出かけることになったのが始まりで、アーユルヴェーダ研究会と、有害食品研究会という二つの会の事務局長を引き受けることになったのであった。

 このとき先生は阪大医学部教授を退職して三年目だった。希有な詩心をもった恬淡とした先生であったが、恬淡とした空気の裏側には、人間の裏の裏まで喝破してやまない批判精神が息づいていた。当時はまだ食品や健康について問題意識をもっているひとはすくない時代であった。丸山先生がインド伝統医学や、日本人の毎日の食事や、有害食品について研究会を作って活動をはじめたのは、破滅の淵に立ちながらそのことに気付いていない我々が、現状のまま放置すれば、取り返しがつかない禍根を残すことになるという、切迫した衛生学者としての先見の明があったからである。丸山博は、世の中の大きなことが、いくつも根本から間違っていることに気づいていた。

 持論のひとつに、衛生学の位置づけがあった。衛生学という学問は、現代医学の枝葉の一分野として位置づけされているが、これがスタートとしての大間違いである。衛生学という幹があって、そのなかの枝、一分野として、現代医学というものが置かれなくてはいけない。出発点が間違っていれば、結果も間違ったものになってくるのは当然である。衛生学という幹のなかに医学が置かれていないから、人間を無視して技術が独走をする。こうした前提から、現代医学にたいする辛辣な批判をされたり、同僚の教授が問題なしと片づけようとしていた、森永ヒ素ミルク事件の患者の調査、「一四年目の訪問」などを実行され、無視されたまま処理済みにされそうになっていた事柄が闇のなかから明るみに出て、森永裁判の結果にも大きく影響することになった。 

 民衆は無知蒙昧だという前提で取り仕切ろうとするのは、為政者側の常套手段である。不正であることを知りながら、行政や大企業に組みして片棒かつぐ、権威を笠に着た御用学者も大勢いる。そんな腐った魂を許せないのである。たびたびお目にかかるにつれ、丸山先生の思想に共感を深めるようになった私は、僧侶として自分なりの助力ができればと、研究会の活動に身を投じていったのであった。共感を覚えるようになったもう一つの動機は、自分でパン工房をつくって、のちに広く知られるようになった、楽健寺の天然酵母パンの研究に没入していたからである。

 天然酵母パンの研究は市場に流通しているパンと、自分が手がけているパンとの比較研究でもあった。食品微生物学の本などを熟読しながら、ケミカルに作られたイーストと、自分が作っている天然酵母パンの酵母菌を、顕微鏡で観察したりしながら見えてきたことは、自然に依存していた昔の農業が、生態系を断ち切られた化学農法へ変わり、漢方医学が見捨てられて現代医学にとってかわったのとまったく同質の変化があらゆるジャンルにまたがった問題だということに気付きはじめていたからである。時代の進歩とは、祖先から受け継ぎ、長年積み上げてきた民族の叡知やエートスを熟慮なく捨てて省みないことだった。

 昨年末で前後一八年間続けたアーユルヴェーダの事務局長を辞退したが、あの丸山博先生との邂逅は、密教的にいえば、準備がととなった弟子に師があらわれたことを意味する。

 

 ここに副題とした「この世の終わりのその日の夜明け」という表現は、ことばに関するひとつの私の経験である。このことばは一九五六年に初演された劇団・民芸の芝居で、アイルランドの劇作家J・M・シングの「西の国の人気者」の主人公(宇野重吉)がしゃべる台詞のなかにある。この戯曲の翻訳は菅原卓だったが、宇野重吉の独特の台詞回しで…この世の終わりのその日の夜明けまで…というくだりがあり、それを聴いたとき、膝を打つような思いで、耳朶に焼き付いたのである。

 岩波文庫を購入して(翻訳・松村みね子)該当部分を調べてみたら、この台詞は「最後審判の日まで」と訳してあり、「最後審判」には(さばき)とルビがあった。「さばきの日まで」と訳された台本だとしたらまったくこの躍動感はない。宇野重吉が「この世の終わりのその日の夜明けまで…」あの訥々たる巻き舌でしゃべるのを聴いたとき受けたインパクトは、ことばを紡ぎ出す思考のあり方とはなにか、訳すとはなにか、という課題として石を投げられたと思ったのである。

 詩的であるとか文学的であるとかいうことは、書き手が熟していなければ、単なる思わせぶりに過ぎないかもしれない。人間はイメージし、努力し、なにかを実現してきた存在である。現代の繁栄の極にあるかに見える社会の姿は、人間の願望や幻想、つまりはイメージ、念力の所産にほかならない。夢想だと思えるような志向も、ひとたび念ずればいつかそれが現実になるということを私はたびたび経験した。 

 人生とは不可思議の森である。詩は、この森のなかの経験から流露してき、自覚をもって書かれるということにほかならない。

 詩人になろうと思うひとが詩人になれるのではなく、多岐にわたる経験のなかでいつしか錬れてきたひとが、詩も書き、やがて詩人というものに育っていくのではなかろうか。